・・・紅殻が古びてい、荒壁の塀は崩れ、人びとはそのなかで古手拭のように無気力な生活をしているように思われた。喬の部屋はそんな通りの、卓子で言うなら主人役の位置に窓を開いていた。 時どき柱時計の振子の音が戸の隙間から洩れてきこえて来た。遠くの樹・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・一本の古びた筧がその奥の小暗いなかからおりて来ていた。耳を澄まして聴くと、幽かなせせらぎの音がそのなかにきこえた。私の期待はその水音だった。 どうしたわけで私の心がそんなものに惹きつけられるのか。心がわけても静かだったある日、それを聞き・・・ 梶井基次郎 「筧の話」
・・・ 豊吉はうなずいて門札を見ると、板の色も文字の墨も同じように古びて「片山四郎」と書いてある。これは豊吉の竹馬の友である。『達者でいるらしい、』かれは思った、『たぶん子供もできていることだろう。』 かれはそっと内をのぞいた。桑園の・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・どうにかしてこの霜を叩き落さんことであります。どうにかしてこの古び果てた習慣の圧力から脱がれて、驚異の念を以てこの宇宙に俯仰介立したいのです。その結果がビフテキ主義となろうが、馬鈴薯主義となろうが、将た厭世の徒となってこの生命を咀うが、決し・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・住持といっても木綿の法衣に襷を掛けて芋畑麦畑で肥柄杓を振廻すような気の置けない奴、それとその弟子の二歳坊主がおるきりだから、日に二十銭か三十銭も出したら寺へ泊めてもくれるだろう。古びて歪んではいるが、座敷なんぞはさすがに悪くないから、そこへ・・・ 幸田露伴 「観画談」
・・・あの皿は古びもあれば出来も佳い品で、価値にすればその猪口とは十倍も違いましょうに、それすら何とも思わないでお諦めなすったあなたが、なんだってそんなに未練らしいことを仰しゃるのです。まあ一盃召し上れな、すっかり御酒が醒めておしまいなすったよう・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・まに 興じたる黄金の時よ 玉の日よ汝帰らず その影を求めて我は 歎くのみ ああ移り行く世の姿 ああ移り行く世の姿塵をかぶりて 若人の帽子は古び 粗衣は裂け長剣は錆を ・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・白石は、コンパスというものかどうか知らぬが、地図に用ありげな機械であるから、私がこの屋敷で見つけていま持って来てある、と言いつつ懐中から古びたコンパスを出して見せた。シロオテはそれを受けとり鳥渡の間いじくりまわしていたが、これはコンパスにち・・・ 太宰治 「地球図」
・・・もうだいぶ長く雨風にさらされて白くされ古びとげとげしく木理を現わしているのであるが、その柱の一面に年月日と名字とが刻してある。これは数年前京都大学の地球物理学者たちがここにエアトヴァスの重力偏差計をすえ付けて観測した地点を示す標柱だそうであ・・・ 寺田寅彦 「小浅間」
・・・霜枯れ時だのに、美しい常磐木の緑と、青玉のような水の色とが古びた家の黄や赤や茶によくうつります。 ゴンドラもおもしろく、貧しい女も美しく見えます。 ローマから ローマへ来て累々たる廃墟の間を彷徨しています。き・・・ 寺田寅彦 「先生への通信」
出典:青空文庫