・・・飯が来るまで、遊びに来やはれしまへんか」「はあ、ありがとう」 咽喉にひっ掛った返事をした。二、三度咳ばらいして、そのまま坐っていた。なんだかこの夫婦者の前へ出むく気がしなかったのである。「お出なはれな」 再び声が来た。 ・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・階下のおかみは「帰るのがお厭どしたら、朝まで寝とおいやしても、うちはかましまへん」と言うかも知れない。それより「誰ぞをお呼びやおへんのどしたら、帰っとくれやす」と言われる方が、と喬は思うのだった。「あんた一緒に帰らへんのか」 女・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・「一筆示し上げ参らせ候大同口よりのお手紙ただいま到着仕り候母様大へん御よろこび涙を流してくり返しくり返しご覧相成り候」 何だつまらない! と一人の水兵が笑いだした。水野はかまわず、ズンズン読む、その声は震えていた。「ついてはご自・・・ 国木田独歩 「遺言」
・・・ 丘のそこかしこ、それから、丘のふもとの草原が延びて行こうとしているあたり、そこらへんに、露西亜人の家が点々として散在していた。革命を恐れて、本国から逃げて来た者もあった。前々から、西伯利亜に土着している者もあった。 彼等はいずれも・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・曰く、「京管領細川右京太夫政元は四十歳の比まで女人禁制にて、魔法飯綱の法愛宕の法を行ひ、さながら出家の如く、山伏の如し、或時は経を読み、陀羅尼をへんしければ、見る人身の毛もよだちける。されば御家相続の子無くして、御内、外様の面、色諫め申しけ・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・この麻布から青山へんへかけて、もう僕らの歩かないところはない……」 と、次郎が言うころは、私たちの借家さがしもひと休みの時だった。なるべく末子の学校へ遠くないところに、そんな注文があった上に、よさそうな貸し家も容易に見当たらなかったので・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ 乞食のじいさんは、二人が、へんにしおしおしているのを見て、どうしたわけかと聞きました。二人は、生れた子どもの名附親になってくれる人がないから困っているところだと話しました。じいさんはそれを聞いて、「では私がなって上げましょう。私だ・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・ これを書きこんだときは、私は大へん苦しかった。いつ書きこんだか、私は決して忘れない。けれども、今は言わない。 捨テラレタ海。と書かれてある。 秋の海水浴場に行ってみたことがありますか。なぎさに破れた絵日傘が打ち寄せられ、歓楽の・・・ 太宰治 「ア、秋」
・・・そのへんだけ底に泥がなくて、砂利が露出している事は、さおでつついてみるとわかる。あの池から、一つの狭い谷が北のほうへ延びて、今の動物地質教室の下から弥生町の門のほうへ続いていた事が、土工の際に明らかになったそうである。この池の地学的の意味に・・・ 寺田寅彦 「池」
一 ――ほこりっぽい、だらだらな坂道がつきるへんに、すりへった木橋がある。木橋のむこうにかわきあがった白い道路がよこぎっていて、そのまたむこうに、赤煉瓦の塀と鉄の門があった。鉄の門の内側は広大な熊本煙草専売局工・・・ 徳永直 「白い道」
出典:青空文庫