・・・おまけにそこには、馬蠅が一匹、わたしの足音も聞えないように、べったり食いついて居りましたっけ。 太刀か何かは見えなかったか? いえ、何もございません。ただその側の杉の根がたに、縄が一筋落ちて居りました。それから、――そうそう、縄のほかに・・・ 芥川竜之介 「藪の中」
・・・よれよれの着物の襟を胸まではだけているので、蘚苔のようにべったりと溜った垢がまる見えである。不精者らしいことは、その大きく突き出た顎のじじむさいひげが物語っている。小柄だが、角力取りのようにでっぷり肥っているので、その汚なさが一層目立つ。濡・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
・・・年中敷きっぱなした蒲団をめくると、青い黴がべったりと畳にへばりついていた。銀色の背中をした名も知れぬ虫がさかんに飛びまわる。蜘蛛の巣は勿論である。掃除をしたことがないのだ。アパートの女中が見兼ねて掃除をしてやろうと言っても、なにか狼狽して断・・・ 織田作之助 「道」
・・・園子は朝起ると、食事前に鏡台の前に坐って、白粉をべったり顔にぬった。そして清三の朝飯の給仕をすますと、二階の部屋に引っこもって、のらくら雑誌を見たり、何か書いたりした。が、大抵はぐてぐて寝ていた。そして五時頃、会社が引ける時分になると、急に・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・青扇は素裸のまま脱衣場の畳のうえにべったり坐って足の指の爪を切っていたのである。風呂からあがりたてらしく、やせこけた両肩から湯気がほやほやたっていた。僕の顔を見てもさほど驚かずに、「夜爪を切ると死人が出るそうですね。この風呂で誰か死んだ・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・ 女中あがりらしいその少女は、品のない口調でそう叫んで、私の傍の椅子にべったり坐った。「はっはっはっは。」 私はひとくせありげに高笑いした。酔ぱらう心の不思議を、私はそのときはじめて体験したのである。 五・・・ 太宰治 「断崖の錯覚」
・・・ 足と、頭の痛さとが、私を、私と同じ量の血にして橋板へ流したように、そこへ、べったりへたばらしてしまった。 ――畜生!――「セキメイツ! 人間の足が痛んでるんだ。分らねえか、此ぼけ茄子野郎! 人間の足が、地についてる処が疼いてる・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・ そしてべったり椅子へ坐ってしまいました。わたくしはわらいました。「よくいろいろの薬の名前をご存知ですな。だれか水を持ってきてください。」ところがその水をミーロがもってきました。そして如露でシャーとかけましたのでデストゥパーゴは・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・インガには、外にそうしているひとがあるというだけでズルズルべったりに妻子のある男と交渉をもちつづけて平気ではいられない。 しかし、ドミトリーは、そのことをどう考えているか? 一言に云えば彼は困っている。ドミトリーが、インガを知ってはじめ・・・ 宮本百合子 「「インガ」」
・・・そのまま、ズルズルべったりに今日まで来ています。『新日本文学』第四号の巻頭に、中野重治さんが「批評の人間性」という論文をかいています。民主主義文学の伝統にたいして正当性をかいている平野謙、荒正人氏たちの論説を反駁し、書きぶりは、アクロバット・・・ 宮本百合子 「一九四六年の文壇」
出典:青空文庫