・・・彼のしかばねは、屋敷の庭の片隅にうずめられ、ひとりの風流な奉行がそこに一本の榎を植えた。榎は根を張り枝をひろげた。としを経て大木になり、ヨワン榎とうたわれた。 ヨワン・バッティスタ・シロオテは、ロオマンの人であって、もともと名門の出・・・ 太宰治 「地球図」
・・・ その他、来春、長編小説三部曲、「虚構の彷徨。」S氏の序文、I氏の装幀にて、出版。 この日、午後一時半、退院。汝らの仇を愛し、汝らを責むる者のために祈れ。天にいます汝らの父の子とならん為なり。天の父はその陽を悪しき者・・・ 太宰治 「HUMAN LOST」
最初の創作集は「晩年」でした。昭和十一年に、砂子屋書房から出ました。初版は、五百部ぐらいだったでしょうか。はっきり覚えていません。その次が「虚構の彷徨」で新潮社。それから、版画荘文庫の「二十世紀旗手」これは絶版になったよう・・・ 太宰治 「私の著作集」
・・・しかし彼の旅行は単に月並な名所や景色だけを追うて、汽車の中では居眠りする亜類のではなくて、何の目的もなく野に山に海浜に彷徨するのが好きだという事である。しかし彼がその夢見るような眼をして、そういう処をさまよい歩いている間に、どんな活動が彼の・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・ こういう事を完全に仕遂げる事はなかなか容易な事ではないが、そういう方向への第一歩として、私は試みに次のような事を考えてみた。 先ず従来の例にならって母音をイエアオウの順に並べる。そしてイからウに至る間に唇は順に前方に突き出て行くも・・・ 寺田寅彦 「歌の口調」
・・・一声高く咆哮しておどり上がりおどり上がると、だだっ子の兵児帯がほどけるように大蛇の巻き線がゆるみほぐれてしまう。しかし、虎もさすがに、「これは少し相手が悪い」といったようなふうで、あっさりと見切りをつけて結局このけんかはもの別れになるらしい・・・ 寺田寅彦 「映画「マルガ」に現われた動物の闘争」
・・・以前に宅に奉公していた女中の家だったか、あるいはその親類の家だったような気がする。夕方この地方には名物の夕凪の時刻に門内の広い空地の真中へ縁台のようなものを据えてそこで夕飯を食った。その時宅から持って行った葡萄酒やベルモットを試みに女中の親・・・ 寺田寅彦 「海水浴」
・・・例えば現代の分子説や開闢説でも古い形而上学者の頭の中に彷徨していた幻像に脈絡を通じている。ガス分子論の胚子はルクレチウスの夢みた所である。ニュートンの微粒子説は倒れたが、これに代るべき微粒子輻射は近代に生れ出た。破天荒と考えられる素量説のご・・・ 寺田寅彦 「科学上の骨董趣味と温故知新」
・・・ 入口を這入る時から、下の方で何だか恐ろしく大きな声で咆哮している人がある事に気が付いていたが、席が定まってからよく見ると、それは正面の高い壇の中壇のような処に立って何事か演説している人の声であった。どういう事が問題になっているのか、肝・・・ 寺田寅彦 「議会の印象」
・・・四時から再び始まる講義までの二三時間を下宿に帰ろうとすれば電車で空費する時間が大部分になるので、ほど近いいろいろの美術館をたんねんに見物したり、旧ベルリンの古めかしい街区のことさらに陋巷を求めて彷徨したり、ティアガルテンの木立ちを縫うてみた・・・ 寺田寅彦 「コーヒー哲学序説」
出典:青空文庫