・・・ 女も笑ったくらい、どこまでが本当で、どこまでが嘘か判らぬような身の上ばなしでしたが、しかし、七つの年までざっと数えて六度か七度、預けられた里をまるで附箋つきの葉書みたいに転々と移ってきたことだけはたしかで、放浪のならわしはその時もう幼・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・彼にはまだ本当に、Kのいうその恐ろしいものの本体というものが解らないのだ。がその本体の前にじり/\引摺り込まれて行く、泥沼に脚を取られたように刻々と陥没しつゝある――そのことだけは解っている。けれどもすっかり陥没し切るまでには、案外時がかゝ・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・こんな訳で、内証言は一つも言えませんから、私は医師の宅まで出かけて本当の容態を聴こうと思いました。これは余程思切った事で、若し医師が駄目と言われたら何としようと躊躇しましたが、それでも聞いておく必要は大いにあると思って、決心して診察室へはい・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・彼女の言葉に同感の意を表して、やはり自分のあれは本当なんだなと思ったのである。ときどき私はその「牢門」から溪へ出て見ることがあった。轟々たる瀬のたぎりは白蛇の尾を引いて川下の闇へ消えていた。向こう岸には闇よりも濃い樹の闇、山の闇がもくもくと・・・ 梶井基次郎 「温泉」
・・・その内大工を頼んで本当に作らすことに仕よう」と言って「竹で作えても木戸は木戸だ、ハ、ハハハハ」と笑いながら屋内へ入った。 お源はこれを自分の宅で聞いていて、くすくすと独で笑いながら、「真実に能く物の解る旦那だよ。第一あんな心持の優い人っ・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・これが本当の慎しみというものだ。 学生は大体に見て二十五歳以下の青年である。二十五歳までに青年がその童貞を保持するに耐えないという理拠があるであろうか。また本人の一生の幸福から見て、そうすることが損失であろうか。私は経験から考えてそうは・・・ 倉田百三 「学生と生活」
田舎から東京をみるという題をつけたが本当をいうと、田舎に長く住んでいると東京のことは殆ど分らない。日本から外国へ行くと却て日本の姿がよく分るとは多くの海外へ行った人々の繰返すところであるし、私もちょっとばかり日本からはなれ・・・ 黒島伝治 「田舎から東京を見る」
・・・その別に取立てて云うほどの何があるでも無い眼を見て、初めて夫がホントに帰って来たような気がし、そしてまた自分がこの人の家内であり、半身であると無意識的に感じると同時に、吾が身が夫の身のまわりに附いてまわって夫を扱い、衣類を着換えさせてやった・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・ケイズと申しますと、私が江戸訛りを言うものとお思いになる方もありましょうが、今は皆様カイズカイズとおっしゃいますが、カイズは訛りで、ケイズが本当です。系図を言えば鯛の中、というので、系図鯛を略してケイズという黒い鯛で、あの恵比寿様が抱いてい・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・それも道理千万な談で、早い譬が、誤植だらけの活版本でいくら万葉集を研究したからとて、真の研究が成立とう訳はない理屈だから、どうも学科によっては骨董的になるのがホントで、ならぬのがウソか横着かだ。マアこんな意味合もあって、骨董は誠に貴ぶべし、・・・ 幸田露伴 「骨董」
出典:青空文庫