・・・皿に載せた一片の肉はほんのりと赤い所どころに白い脂肪を交えている。が、ちょっと裏返して見ると、鳥膚になった頬の皮はもじゃもじゃした揉み上げを残している。――と云う空想をしたこともあった。尤も実際口へ入れて見たら、予期通り一杯やれるかどうか、・・・ 芥川竜之介 「格さんと食慾」
・・・そう云えばもう一つ、その頭の上の盆提灯が、豊かな胴へ秋草の模様をほんのりと明く浮かせた向うに、雨上りの空がむら雲をだだ黒く一面に乱していたのも、やはり妙に身にしみて、忘れる事が出来ません。 そこで肝腎の話と云うのは、その新蔵と云う若主人・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・これは毎朝川魚を市へ売りに出ます老爺で、その日もまだうす暗いのに猿沢の池へかかりますと、あの采女柳の枝垂れたあたり、建札のある堤の下に漫々と湛えた夜明け前の水が、そこだけほんのりとうす明く見えたそうでございます。何分にも竜の噂がやかましい時・・・ 芥川竜之介 「竜」
・・・ 夢中でぽかんとしているから、もう、とっぷり日が暮れて塀越の花の梢に、朧月のやや斜なのが、湯上りのように、薄くほんのりとして覗くのも、そいつは知らないらしい。 ちょうど吹倒れた雨戸を一枚、拾って立掛けたような破れた木戸が、裂めだらけ・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・ 女房は手拭を掻い取ったが、目ぶちのあたりほんのりと、逆上せた耳にもつれかかる、おくれ毛を撫でながら、「厭な児だよ、また裾を、裾をッて、お引摺りのようで人聞きが悪いわね。」「錦絵の姉様だあよ、見ねえな、皆引摺ってら。」「そり・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ 正面の額の蔭に、白い蝶が一羽、夕顔が開くように、ほんのりと顕われると、ひらりと舞下り、小男の頭の上をすっと飛んだ。――この蝶が、境内を切って、ひらひらと、石段口の常夜燈にひたりと附くと、羽に点れたように灯影が映る時、八十年にも近かろう・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・社殿の雪洞も早や影の届かぬ、暗夜の中に顕れたのが、やや屈みなりに腰を捻って、その百日紅の梢を覗いた、霧に朦朧と火が映って、ほんのりと薄紅の射したのは、そこに焚落した篝火の残余である。 この明で、白い襟、烏帽子の紐の縹色なのがほのかに見え・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・三の烏 や、待つといえば、例の通り、ほんのりと薫って来た。一の烏 おお、人臭いぞ。そりゃ、女のにおいだ。二の烏 はて、下司な奴、同じ事を不思議な花が薫ると言え。三の烏 おお、蘭奢待、蘭奢待。一の烏 鈴ヶ森でも、この薫は、・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・始めは障子の紙へ、ごくうっすらほんのりと影がさす。物の影もその形がはっきりとしない。しかしその間の色が最も美しい。ほとんど黄金を透明にしたような色だ。強みがあって輝きがあってそうして色がある。その色が目に見えるほど活きた色で少しも固定してお・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・曇っては居るが月が上ったと見え、雲がほんのり白らんで、朧気に庭の様子が判る。狭い庭で軒に迫る木立の匂い、苔の匂い、予は現実を忘るるばかりに、よくは見えない庭を見るとはなしに見入った。 北海の波の音、絶えず物の崩るる様な響、遠く家を離れて・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
出典:青空文庫