・・・この辺の家の窓は、五味で茶色に染まっていて、その奥には人影が見えぬのに、女の心では、どこの硝子の背後にも、物珍らしげに、好い気味だというような顔をして、覗いている人があるように感ぜられた。ふと気が付いて見れば、中庭の奥が、古木の立っている園・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
一 さよ子は毎日、晩方になりますと、二階の欄干によりかかって、外の景色をながめることが好きでありました。目のさめるような青葉に、風が当たって、海色をした空に星の光が見えてくると、遠く町の燈火が、乳色のもやのうちから、ちらちらとひ・・・ 小川未明 「青い時計台」
・・・止むなくんば道々乞食をして帰るのだが、こうなってもさすがにまだ私は、人の門に立って三厘五厘の合力を仰ぐまでの決心はできなかった。見えか何か知らぬがやっぱり恥しい。そこで屋台店の亭主から、この町で最も忙しい商店の名を聞いて、それへ行って小僧で・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・た、私はその音に不図何心なく眼が覚めて、一寸寝返りをして横を見ると、呀と吃驚した、自分の直ぐ枕許に、痩躯な膝を台洋燈の傍に出して、黙って座ってる女が居る、鼠地の縞物のお召縮緬の着物の色合摸様まで歴々と見えるのだ、がしかし今時分、こんなところ・・・ 小山内薫 「女の膝」
・・・白樺の林が月明かりに見えた。すすきの穂が車窓にすれすれに、そしてわれもこうの花も咲いていた。青味がちな月明りはまるで夜明けかと思うくらいであった。しかし、まだ夜が明けていなかった。 やがて軽井沢につき、沓掛をすぎ、そして追分についた。・・・ 織田作之助 「秋の暈」
・・・シュッシュッという弾丸の中を落来る小枝をかなぐりかなぐり、山査子の株を縫うように進むのであったが、弾丸は段々烈しくなって、森の前方に何やら赤いものが隠現見える。第一中隊のシードロフという未だ生若い兵が此方の戦線へ紛込でいるから如何してだろう・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・彼は玄関へ入るなり、まず敷台の隅の洋傘やステッキの沢山差してある瀬戸物の筒に眼をつける――Kの握り太の籐のステッキが見える――と彼は案内を乞うのも気が引けるので、こそ/\と二階のKの室へあがって行く。……「……K君――」「どうぞ……・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・医師が見える度に問答が始まります。「先生、あなたは暖かくなれば楽になると言われましたが本当ですか。脚が腫れたらもう駄目ではないのでしょうか」「いいえ、そんなことはありません。これから暖くなるのです。今に楽になりますよ、成る丈け安静に・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・ その青年の顔にはわずかの時間感傷の色が酔いの下にあらわれて見えた。彼はビールを一と飲みするとまた言葉をついで、「その崖の上へ一人で立って、開いている窓を一つ一つ見ていると、僕はいつでもそのことを憶い出すんです。僕一人が世間に住みつ・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・中なる人の影は見えず。 われを嘲けるごとく辰弥は椅子を離れ、庭に下り立ちてそのまま東の川原に出でぬ。地を這い渡る松の間に、乱れ立つ石を削りなして、おのずからなる腰掛けとしたるがところどころに見ゆ。岩を打ち岩に砕けて白く青く押し流るる水は・・・ 川上眉山 「書記官」
出典:青空文庫