・・・私は、この女には、なんの興味も覚えなかったのであるが、いまひとりの少女、ああ、私はこの女をひとめ見るより身内のさっと凍るのを覚えた。いま思うと、なんの不思議もないことなのである。わかい頃には、誰しもいちどはこんな経験をするものなのだ。途上で・・・ 太宰治 「断崖の錯覚」
・・・一族から、このような大病人がひとり出たばかりに、私の身内の者たちは、皆痩せて、一様に少しずつ寿命をちぢめたようだ。死にやいいんだ。つまらんものを書いて、佳作だの何だのと、軽薄におだてられたいばかりに、身内の者の寿命をちぢめるとは、憎みても余・・・ 太宰治 「父」
・・・四十二年十一月七日のには、「……近ごろ身内のものから手紙が来ると、父の病気が悪くなったのかとなんだか恐ろしい。……父の病気に対して、私の心持ちは、ただなんだか恐ろしいというにとどまる。それでいつも考えまい考えまいと努め、またそうしていら・・・ 寺田寅彦 「亮の追憶」
・・・ 利平は、身内を、スーッと走る寒さに似た恐怖を感ぜずにいられなかった。「おい、支度をしろ、今日のうちに、引越してしまおう」 おど、おどしている女房に、こう云った利平は、先刻までの、自信がすっかりなくなってキョロキョロしていた。・・・ 徳永直 「眼」
・・・ 重吉というのは自分の身内ともやっかいものともかたのつかない一種の青年であった。一時は自分の家に寝起きをしてまで学校へ通ったくらい関係は深いのであるが、大学へはいって以来下宿をしたぎり、四年の課程を終わるまで、とうとう家へは帰らなかった・・・ 夏目漱石 「手紙」
・・・あんまりわがままばかりなさると、私が御内所で叱られますよ」「ふん。お前さんがお叱られじゃお気の毒だね。吉里がこうこうだッて、お神さんに何とでも訴けておくれ」 白字で小万と書いた黒塗りの札を掛けてある室の前に吉里は歩を止めた。「善・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 赤の他人にはよくして、身内の事は振り向きもしない。お君の親達は「百面相」だの「七面鳥の様な」と云って居た。 それでも、叱られ叱られ毎日、朝から晩まで、こせこせ働いて居たうちは、いろいろな仕事に気がまぎれて、少時の間辛い事を忘れて居・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・乃木夫妻の死という行為に対して、初めは半信半疑であった作者が、世論の様々を耳にして、一つの情熱を身内に感じるようになって彌五右衛門が恩義によって死した心を描いたのは作者の精神の構造がそこに映っている意味からも面白いと思う。当時五十歳になって・・・ 宮本百合子 「鴎外・芥川・菊池の歴史小説」
・・・ 御供をし又それを静かに引いて柩は再び皆の手に抱かれて馬車にのせられ淋しい砂利路を妹の弟と身内の誰彼の眠って居る家の墓地につれられた。 赤子のままでこの世を去った弟と頭を合わせて妹の安まるべき塚穴は掘ってあった。 私はその塚穴の・・・ 宮本百合子 「悲しめる心」
・・・ひしと身に迫り、身内に疼いている生活上の様々の問題に対して、自分の一票は、どんなに力となってそれを展開し解決に向けて行き得るであろうか。どこへ一票を投じたならば、生活そのものから湧いている多くの願いは正直に答えられ偽りなく行動されるのであろ・・・ 宮本百合子 「現実に立って」
出典:青空文庫