・・・医師が見える度に問答が始まります。「先生、あなたは暖かくなれば楽になると言われましたが本当ですか。脚が腫れたらもう駄目ではないのでしょうか」「いいえ、そんなことはありません。これから暖くなるのです。今に楽になりますよ、成る丈け安静に・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・ その青年の顔にはわずかの時間感傷の色が酔いの下にあらわれて見えた。彼はビールを一と飲みするとまた言葉をついで、「その崖の上へ一人で立って、開いている窓を一つ一つ見ていると、僕はいつでもそのことを憶い出すんです。僕一人が世間に住みつ・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・に移りかけている。三重四重、五重にも六重にも重なって鳴いている。 峻はこの間、やはりこの城跡のなかにある社の桜の木で法師蝉が鳴くのを、一尺ほどの間近で見た。華車な骨に石鹸玉のような薄い羽根を張った、身体の小さい昆虫に、よくあんな高い音が・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・中なる人の影は見えず。 われを嘲けるごとく辰弥は椅子を離れ、庭に下り立ちてそのまま東の川原に出でぬ。地を這い渡る松の間に、乱れ立つ石を削りなして、おのずからなる腰掛けとしたるがところどころに見ゆ。岩を打ち岩に砕けて白く青く押し流るる水は・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・ この青年は、なぜかそのころ学校を休んで、何とはなしに日を送っていましたが、私には別に不思議にも見えませんでした。 午後三時ごろ、学校から帰ると、私の部屋に三人、友だちが集まっています、その一人は同室に机を並べている木村という無口な・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・こういうことはやはり正面からの道が一番いいので、ほかから見れば、円満幸福に見えても、一つ一つの生活のはしばしまで、愛の行き渡り方、心のとけ合い方が違うのだ。 それに夫婦生活には必ず、倦怠期があるし、境遇上に不幸が襲うし、相手にそれほどで・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・ 下顎骨の長い、獰猛に見える伍長が突っ立ったまゝ云った。 彼は、何故、そっちへ行かねばならないか、訊ねかえそうとした。しかし、うわ手な、罪人を扱うようなものゝ云い方は、変に彼を圧迫した。彼は、ポケットの街の女から貰った眼の大きい写真・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・た幾年の間を浮世とやり合って、よく搦手を守りおおさせたいわゆるオカミサンであったのであるし、それに元来が古風実体な質で、身なり髪かたちも余り気にせぬので、まだそれほどの年では無いが、もはや中婆ァさんに見えかかっている位である。「ア、帰っ・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・「もう直ぐだ、あそこの角をまがると、刑務所の壁が見えるよ。」 ――俺はその言葉に、だまって向き直った。 青い褌 自動車は合図の警笛をならしながら、刑務所の構内に入って行った。 監獄のコンクリートの壁は、側・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・末となりしに俊雄もいささか辟易したるが弱きを扶けて強きを挫くと江戸で逢ったる長兵衛殿を応用しおれはおれだと小春お夏を跳ね飛ばし泣けるなら泣けと悪ッぽく出たのが直打となりそれまで拝見すれば女冥加と手の内見えたの格をもってむずかしいところへ理を・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
出典:青空文庫