・・・「石橋真国は語学に関する著述未刊のもの数百巻を遺した。今松井簡治さんの蔵儲に帰している。所謂やわらかものには『隠里の記』というのがある。これは岡場所の沿革を考証したものである。真国は唐様の手を見事に書いた。職業は奉行所の腰掛茶屋の主人であっ・・・ 森鴎外 「細木香以」
壱 小倉の冬は冬という程の事はない。西北の海から長門の一角を掠めて、寒い風が吹いて来て、蜜柑の木の枯葉を庭の砂の上に吹き落して、からからと音をさせて、庭のあちこちへ吹き遣って、暫くおもちゃにしていて、と・・・ 森鴎外 「独身」
・・・所々に蜜柑の木があって、小さい実が沢山生っている。縁に近い処には、瓦で築いた花壇があって、菊が造ってある。その傍に円石を畳んだ井戸があって、どの石の隙間からも赤い蟹が覗いている。花壇の向うは畠になっていて、その西の隅に別当部屋の附いた厩があ・・・ 森鴎外 「鶏」
・・・彼は美しいものには何ものにも直ちに心を開く自由な旅行者として、たとえば異郷の舗道、停車場の物売り場、肉饅頭、焙鶏、星影、蜜柑、車中の外国人、楡の疎林、平遠蒼茫たる地面、遠山、その陰の淡菫色、日を受けた面の淡薔薇色、というふうに、自分に与えら・・・ 和辻哲郎 「享楽人」
出典:青空文庫