・・・柵の外より頻りに汽車の方を覗く美髯公のいずれ御前らしきが顔色の著しく白き西洋人めくなど土地柄なるべし。立派なる洋館も散見す。大船にて横須賀行の軍人下りたるが乗客はやはり増すばかりなり。隣りに坐りし静岡の商人二人しきりに関西の暴風を語り米相場・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・もし木戸松菊がいたらば――明治の初年木戸は陛下の御前、三条、岩倉以下卿相列座の中で、面を正して陛下に向い、今後の日本は従来の日本と同じからず、すでに外国には君王を廃して共和政治を布きたる国も候、よくよく御注意遊ばさるべくと凜然として言上し、・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・又狭斜の巷に在っては「池の端の御前」の名を以て迎えられていた。居士が茅町の邸は其後主人の木挽町合引橋に移居した後まで永く其の儘に残っていたので、わたくしも能く之を見おぼえている。家は軽快なる二階づくりで其の門墻も亦極めていかめしからざるとこ・・・ 永井荷風 「上野」
・・・「御前、訳ア御わせん。雪の上に足痕がついて居やす。足痕をつけて行きゃア、篠田の森ア、直ぐと突止めまさあ。去年中から、へーえ、お庭の崖に居たんでげすか。」 清五郎の云う通り、足痕は庭から崖を下り、松の根元で消えて居る事を発見した。父を・・・ 永井荷風 「狐」
・・・むかし土手の下にささやかな門をひかえた長命寺の堂宇も今はセメント造の小家となり、境内の石碑は一ツ残らず取除かれてしまい、牛の御前の社殿は言問橋の袂に移されて人の目にはつかない。かくの如く向嶋の土手とその下にあった建物や人家が取払われて、その・・・ 永井荷風 「水のながれ」
・・・演説者は濁りたる田舎調子にて御前はカーライルじゃないかと問う。いかにもわしはカーライルじゃと村夫子が答える。チェルシーの哲人と人が言囃すのは御前の事かと問う。なるほど世間ではわしの事をチェルシーの哲人と云うようじゃ。セージと云うは鳥の名だに・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・「いえあの御顔色はただの御色では御座いません」と伝通院の坊主を信仰するだけあって、うまく人相を見る。「御前の方がどうかしたんだろう。先ッきは少し歯の根が合わないようだったぜ」「私は何と旦那様から冷かされても構いません。――しかし・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・「御宮までは三里でござりまっす」「山の上までは」「御宮から二里でござりますたい」「山の上はえらいだろうね」と碌さんが突然飛び出してくる。「ねえ」「御前登った事があるかい」「いいえ」「じゃ知らないんだね」「・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・題しらず雲ならで通はぬ峰の石陰に神世のにほひ吐く草花歌会の様よめる中に人麻呂の御像のまへに机すゑ灯かかげ御酒そなへおく設け題よみてもてくる歌どもを神の御前にならべもてゆくことごとく歌よみ・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・ そんなに沈んだ泣いた眼をして居ると御前の美くしさは早く老いてしまうから――誰かが御身をつらくしたなら私は自分はどうされても仇をうってあげるだけの勇気を持って居るのだよ。精女 誰にもどうもされたのではございませんけれ共――今ここに参りま・・・ 宮本百合子 「葦笛(一幕)」
出典:青空文庫