・・・其の陳腐にして興味なきことも亦よく予想せられるところであるが、これ却って未知の新しきものよりも老人の身には心易く心丈夫に思われ、覚えず知らず行を逐って読過せしめる所以ともなるのであろう。この間の消息は直にわたくしが身の上に移すことが出来る。・・・ 永井荷風 「百花園」
・・・そのたびたびわたくしは河を隔てて浅草寺の塔尖を望み上流の空遥に筑波の山影を眺める時、今なお詩興のおのずから胸中に満ち来るを禁じ得ない。そして恨然として江戸徃昔の文化を追慕し、また併せてわが青春の当時を回想するのである。 震災の後わたくし・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・余が博士を辞退した手紙が同じく新聞紙上で発表されたときもまた余は故旧新知もしくは未知の或ものからわざわざ賛成同情の意義に富んだ書状を幾通も受取った。伊予にいる一旧友は余が学位を授与されたという通信を読んで賀状を書こうと思っていた所に、辞退の・・・ 夏目漱石 「博士問題とマードック先生と余」
・・・余は若い時からいろいろ愚な事を想像する癖があるが、未知の人の容貌態度などはあまり脳中に描かない。ことに中年からは、この方面にかけると全く散文的になってしまっている。だから長谷川君についても別段に鮮明な予想は持っていなかったのであるけれども、・・・ 夏目漱石 「長谷川君と余」
・・・ その時私は、未知の錯覚した町の中で、或る商店の看板を眺めていた。その全く同じ看板の絵を、かつて何所かで見たことがあると思った。そして記憶が回復された一瞬時に、すべての方角が逆転した。すぐ今まで、左側にあった往来が右側になり、北に向って・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・いちばん困るのは、気心の解らない未知の人の訪問である。それも用件で来るのは好いのだけれども、地方の文学青年なんかで、ぼんやり訪ねて来られるのは最も困る。僕は一体話題のすくない人間であり、自己の狭い主観的興味に属すること以外、一切、話すことの・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
・・・ そうなるためには、留置場や、監房は立派な教材に満ちていた。間違って捕っても、彼の入る所は、云わば彼の家であった。そこには多くの知り合いがいた。白日の下には、彼を知るものは悉くが、敵であった。が、帰って行けば、「ふん、そいつはまずか・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
去年の春、我が慶応義塾を開きしに、有志の輩、四方より集り、数月を出でずして、塾舎百余人の定員すでに満ちて、今年初夏のころよりは、通いに来学せんとする人までも、講堂の狭きゆえをもって断りおれり。よってこのたびはまた、社中申合・・・ 福沢諭吉 「慶応義塾新議」
・・・ 未知の神、未知の幸福――これは象徴派のよく口にする所だが、あすこいらは私と同じ傾向に来て居るんじゃないかと思うね。併し彼等はまるで今迄とは性質の変った思いもかけぬ神様や幸福が先きにあるように考えてるらしいが、私はそうは思わん。我々が斯・・・ 二葉亭四迷 「私は懐疑派だ」
・・・汐は今満ちきりて溢るるばかりだ。趣が支那の詩のようになって俳句にならぬ。忽ち一艘の小舟が前岸の蘆花の間より現れて来た。すると宋江が潯陽江を渡る一段を思い出した。これは去年病中に『水滸伝』を読んだ時に、望見前面、満目蘆花、一派大江、滔々滾々、・・・ 正岡子規 「句合の月」
出典:青空文庫