・・・ 精神がこの屈辱を感ずるとき、吾人はこれを過去の輪廓がまさに崩れんとする前兆と見る。未来に引き延ばしがたきものを引き延ばして無理にあるいは盲目的に利用せんとしたる罪過と見る。 過去はこれらのイズムに因って支配せられたるが故に、これか・・・ 夏目漱石 「イズムの功過」
・・・葛餅を獲たる蟻はこの響きに度を失して菓子椀の中を右左りへ馳け廻る。「蟻の夢が醒めました」と女は夢を語る人に向って云う。「蟻の夢は葛餅か」と相手は高からぬほどに笑う。「抜け出ぬか、抜け出ぬか」としきりに菓子器を叩くは丸い男である。・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・それにしてもユンケル氏が出て来ないのを不思議に思い、エスさんに尋ねて見ると、自分は全く家を間違っていたのであった。 昨年の秋、十数年ぶりに金沢へ帰って見た。小立野の高台から見はらす北国の青白い空には変りはないが、何十年昔のこととて、街は・・・ 西田幾多郎 「アブセンス・オブ・マインド」
・・・甚だしきは独逸近代の軍国主義さへも、ニイチェの影響だと見る人がある。それによつてアメリカ人は、世界大戦の責任者をカイゼルとニイチェとの罪に帰した。 日本に於けるニイチェの影響は、しかしながら皆無と言ふ方が当つて居る。日本の詩人で、多少で・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・ 流石は外国人だ、見るのも気持のいいようなスッキリした服を着て、沢山歩いたり、どうしても、どんなに私が自惚れて見ても、勇気を振い起して見ても、寄りつける訳のものじゃない処の日本の娘さんたちの、見事な――一口に云えば、ショウウインドウの内・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ すると車が早く廻る。ただそれ丈けであった。車から下りて、よく車の組立を見たり「何のために車を廻すか?」を考える暇がなかった。 秋山も小林も極く穏かな人間であった。秋山は子供を六人拵えて、小林は三人拵えて、秋山は稍ずるく、小林は掘り出し・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・本統に善さんにゃ気の毒だとは思うけれど、顔を見るのもいやなんだもの。信切な人ではあるし……。信切にされるほど厭になるんだもの。誰かのように、実情がないんじゃアなし、義理を知らないんじゃアなし……」 平田はぷいと坐を起ッた。「お便所」・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・して大声を出して笑った。「ミリオネエルだ。あの、おめえがか。して見ると、珍らしいミリオネエルの変物だなあ。まあ、いいから来て寝ろ。おれの場所を半分分けてやる。ぴったり食っ附いて寝ると、お互に暖かでいい。ミリオネエルはよく出来たな。」 爺・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・女子の天性容色を重んずるが故に、其唯一に重んずる所の容よりも心の勝れたるこそ善けれと記して、文章に力を付けたるは巧なりと雖も、唯是れ文章家の巧として見る可きのみ。其以下婦人の悪徳を並べ立てたる箇条は読んで字の如く悪徳ならざるはなし。心騒しく・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・智識の眼より見るときは、清元にもあれ常磐津にもあれ凡そ唱歌といえるものは皆人間の声に調子を付けしものにて、其調子に身の有るものは常磐津となり意気なものは清元となると、先ず斯様に言わねばならぬ筈。されど若し其の身のある調子とか意気な調子とかい・・・ 二葉亭四迷 「小説総論」
出典:青空文庫