・・・だから門口にも僕の名刺だけは張り付けて置いたがね。七円五十銭の家賃の主人なんざあ、主人にしたところが見事な主人じゃない。主人中の属官なるものだあね。主人になるなら勅任主人か少なくとも奏任主人にならなくっちゃ愉快はないさ。ただ下宿の時分より面・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・あなたの下を見廻す、監督官の相図を待って一気にこの坂を馳け下りんとの野心あればなり、坂の長さ二丁余、傾斜の角度二十度ばかり、路幅十間を超えて人通多からず、左右はゆかしく住みなせる屋敷ばかりなり、東洋の名士が自転車から落る稽古をすると聞いて英・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・だから本当を云うと、こっちから名刺でも持って訪問するのが世間並の礼であったんだけれども、そこをつい怠けて、どこが長谷川君の家だか聞き合わせもせずに横着をきめてしまった。すると間もなく大阪から鳥居君が来たので、主筆の池辺君が我々十余人を有楽町・・・ 夏目漱石 「長谷川君と余」
・・・帝王と云う字は具体の名詞か抽象の名詞かと問えば、誰も具体と答えるだろうと思います。なるほど具体名詞に相違ないです。けれどもただ具体的だと承知するばかりで、明暸な印象は比較的出にくいのです。帝王の画を眼前でかいて見ろと云われても、すぐと図案は・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・其趣は西洋の文典書中に実名詞の種類を分けて男性女性中性の名あるが如く、往古不文時代の遺習にして固より深き意味あるに非ず。左れば男子は活溌にして身体強大なるが故に陽の部に入り、女子は静にして小弱なるが故に陰なりなど言う理窟もあらんかなれども、・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・「おもしろい仕事がある。名刺をあげるから、そこへすぐ行きなさい。」博士は名刺をとり出して、何かするする書き込んでブドリにくれました。ブドリはおじぎをして、戸口を出て行こうとしますと、大博士はちょっと目で答えて、「なんだ、ごみを焼いて・・・ 宮沢賢治 「グスコーブドリの伝記」
・・・わしの名刺に向うの番地を書いてやるから、そこへすぐ今夜行きなさい。」 ネネムは名刺を呉れるかと思って待っていますと、博士はいきなり白墨をとり直してネネムの胸に、「セム二十二号。」と書きました。 ネネムはよろこんで叮寧におじぎをして先・・・ 宮沢賢治 「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」
・・・記者その人々の存在は、社名入りの名刺とその旗を立てて走る自動車の威厳によって装われるようになったのであった。 最近十数年の間戦争を強行し、非常な迅さで崩壊の途を辿った今日までの日本で、新聞がどういうものであったかは、改めて云う必要さえも・・・ 宮本百合子 「明日への新聞」
・・・彼の妻で、知名なダンサーであるラタン・デビーのことなどをきいているところへ、女中が名刺を取次ぎ、一人の客を案内して来た。その顔を何心なく見、“Glad to see you”と云いながら、自分は思いがけない心地がした。 この人は、先赤門・・・ 宮本百合子 「思い出すこと」
・・・などが世間の注目をひき、文章の古典復興物語調流行がきざしかけた頃、なにかの雑誌で、谷崎と志賀との文章を対比解剖し、二人の文章にあらわれている名詞、動詞の多少、形容詞、副詞の性質を分析し、志賀直哉を客観的描写の作家とし、谷崎潤一郎の最近書く物・・・ 宮本百合子 「芸術が必要とする科学」
出典:青空文庫