・・・神父は微笑んだ眼に目礼した。手は青珠の「こんたつ」に指をからめたり離したりしている。「わたくしは一番ヶ瀬半兵衛の後家、しのと申すものでございます。実はわたくしの倅、新之丞と申すものが大病なのでございますが……」 女はちょいと云い澱ん・・・ 芥川竜之介 「おしの」
・・・ 看護婦は洋一の姿を見ると、ちょいと媚のある目礼をした。洋一はその看護婦にも、はっきり異性を感じながら、妙に無愛想な会釈を返した。それから蒲団の裾をまわって、母の顔がよく見える方へ坐った。 お律は眼をつぶっていた。生来薄手に出来た顔・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・それが薔薇かと思われる花を束髪にさして、地味な色の半襟の上に、白い二重顋を休めていましたが、私がその顔に気がつくと同時に、向うも例の艶しい眼をあげて、軽く目礼を送りました。そこで私も眼鏡を下しながら、その目礼に答えますと、三浦の細君はどうし・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・今西は冷かに目礼すると、一通の封書を残したまま、また前のように音もなく、戸の向うの部屋へ帰って行った。 戸が今西の後にしまった後、陳は灰皿に葉巻を捨てて、机の上の封書を取上げた。それは白い西洋封筒に、タイプライタアで宛名を打った、格別普・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・ 彼女はちょっと目礼したぎり、躍るように譚の側へ歩み寄った。しかも彼の隣に坐ると、片手を彼の膝の上に置き、宛囀と何かしゃべり出した。譚も、――譚は勿論得意そうに是了是了などと答えていた。「これはこの家にいる芸者でね、林大嬌と言う人だ・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・昨日の三重子は、――山手線の電車の中に彼と目礼だけ交換した三重子はいかにもしとやかな女学生だった。いや、最初に彼と一しょに井の頭公園へ出かけた三重子もまだどこかもの優しい寂しさを帯びていたものである。…… 中村はもう一度腕時計を眺めた。・・・ 芥川竜之介 「早春」
・・・やがて老人の前を通るときに、青年は黙礼をして、ばらの花をかいだのでありました。 老人は、なにかものをいおうとすると目がさめました。それはまったく夢であったのです。それから一月ばかりしますと、野ばらが枯れてしまいました。その年の秋、老人は・・・ 小川未明 「野ばら」
・・・ 私を見ると、顎を上げて黙礼し、「しんみりやってる所を邪魔したかな」とマダムの方へ向いた。「阿呆らしい。小説のタネをあげてましてん。十銭芸者の話……」とマダムが言いかけると、「ほう? 今宮の十銭芸者か」と海老原は知っていて、・・・ 織田作之助 「世相」
・・・ 自分は握手して、黙礼して、此不幸なる青年紳士と別れた、日は既に落ちて余光華かに夕の雲を染め、顧れば我運命論者は淋しき砂山の頂に立って沖を遙に眺て居た。 其後自分は此男に遇ないのである。・・・ 国木田独歩 「運命論者」
・・・と柄にない声を出して、同じく洋服の先生がはいって来て、も一ツの卓に着いて、われわれに黙礼した。これは、すぐ近所の新聞社の二の面の豪傑兼愛嬌者である。けれども連中、だれも黙礼すら返さない、これが常例である。「そうですとも、考えがあるなら言・・・ 国木田独歩 「号外」
出典:青空文庫