・・・「幸さん」とはっきり呼んだものがあった。客は明らかにびっくりした。しかもその驚いた顔は、声の主を見たと思うと、たちまち当惑の色に変り出した。「やあ、こりゃ檀那でしたか。」――客は中折帽を脱ぎながら、何度も声の主に御時儀をした。声の主は俳人の・・・ 芥川竜之介 「魚河岸」
・・・「兄さん!」 車夫は体を後に反らせて、際どく車の走りを止めた。車の上には慎太郎が、高等学校の夏服に白い筋の制帽をかぶったまま、膝に挟んだトランクを骨太な両手に抑えていた。「やあ。」 兄は眉一つ動かさずに、洋一の顔を見下した。・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・そうしたら、どうでしょう、帽子が――その時はもう学校の正門の所まで来ていましたが――急に立ちどまって、こっちを振り向いて、「やあい、追いつかれるものなら、追いついて見ろ」 といいました。確かに帽子がそういったのです。それを聞くと、僕・・・ 有島武郎 「僕の帽子のお話」
・・・ 火事だ火事だと、男も女も口々に――「やあ、馬鹿々々。何だ、そんな体で、引込まねえか、こら、引込まんか。」 と雲の峰の下に、膚脱、裸体の膨れた胸、大な乳、肥った臀を、若い奴が、鞭を振って追廻す――爪立つ、走る、緋の、白の、股、向・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・いずれ、身勝手な――病のために、女の生肝を取ろうとするような殿様だもの……またものは、帰って、腹を割いた婦の死体をあらためる隙もなしに、やあ、血みどれになって、まだ動いていまする、とおのが手足を、ばたばたと遣りながら、お目通、庭前で斬られた・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・「おとよさんほしいというか、嬶にいいつけてやるど、やあいやあい」 で話はおしまいになる。おはまが帰って一々省作に話して聞かせる。そんな次第だから省作は奥へ引っ込んでて、夜でなけりゃ外へ出ない。隣の人たちにもどうも工合が悪い。おはまば・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・ 下を向いて仕事をしていた男は、隣の屋根から、こちらを向いて、みょうな男が顔を出してものをいったので、気むずかしい顔を上げてみましたが、急に笑顔になって、「やあ、お隣の先生ですか。さあ、どうぞ、そこからお入りください。」と、男はいい・・・ 小川未明 「あほう鳥の鳴く日」
・・・たちまち妙な男は大きな声で、「やあ、おまえさんの顔色は真っ青じゃ。まあ、その傷口はどうしたのだ。」と、電信柱の顔を見てびっくりしました。 このとき、電信柱がいうのに、「ときどき怖ろしい電気が通ると、私の顔色は真っ青になるのだ。み・・・ 小川未明 「電信柱と妙な男」
・・・一夫はあんまり好きやあれしません。あの人は高瀬が好きや言いますのんです」「はあ、そうですか」 絹代とは田中絹代、一夫とは長谷川一夫だとどうやらわかったが、高瀬とは高瀬なにがしかと考えていると、「貴方は誰ですの?」「高瀬です」・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・「いやあ、――あ、荷物、荷物……」 赤井と二人掛りで渡して、「これだけですか」「はあ、どうも……」「じゃ、気をつけて、ごきげんよう」「ごきげんよう、どうもいろいろと……」 頭を下げたが、しかし彼女は立ち去ろうとし・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
出典:青空文庫