・・・折角おめえこの家焼きてえちゅうに止めだてしてわるかった。おらもじゃあ手伝ってくれべえよ」 勘助も粗朶火を手に持った。そして、消防の方に何だか合図し、穏かに、楽しそうな風体で、「おらも助けてやるぞ、なあ勇吉どん」と、ふすまをはずし・・・ 宮本百合子 「田舎風なヒューモレスク」
・・・赤茶色の箪笥、長火鉢、蠅入らず、部屋のあらいざらいの道具が、皆、テラテラ妙に光って、ぼろになった畳と畳との合わせ目から夜気がつめたくすべり込んで来る様だった。 火の気のない、静かな、広い畑の中にポッツリたった一軒家には、夜のあらゆる不思・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・ 野蛮な声の爆発が鎮ると、都おどりのある間だけ点される提灯の赤い色が夜気に冴える感じであった。 空には月があり、ゆっくり歩いていると肩のあたりがしっとり重り、薄ら寒い晩であった。彼等は帰るなり火鉢に手をかざしていると、「どう・・・ 宮本百合子 「高台寺」
・・・朝から夕方までおびただしい人間の足の下にあった赤い広場の土はもうぽくぽくになっている。夜気の中でもそのほとぼりと亢奮がさめ切っていないところどころで、臨時施設の飲料水道の噴水があふれて、小さいぬかるみをこしらえている。新手な群集は子供や年寄・・・ 宮本百合子 「子供・子供・子供のモスクワ」
・・・静かな冷たい夜気の中で、ゆるやかに鐘が鳴っている。暗くて姿の見えない人々が雪を軋ませながら走った。橇の滑り木が鳴る。鐘は気味悪く鳴りつづけている。この夜の地方の町らしい描写を、ゴーリキイは実感をもって記憶に呼びおこしている。主人が戸外へ出よ・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
・・・ 再び森閑とした夜気。――私共は炬燵にさし向いの顔を見合わせ、微笑んだ。こちらのささやき。「地方色よ」「余り静かだからいい景物だ――でも、わるい妓だな」 程なく「ああ冷えちゃった」 立ったまま年増の女の云う声がした。・・・ 宮本百合子 「町の展望」
・・・ 阿部一族は討手の向う日をその前日に聞き知って、まず邸内を隈なく掃除し、見苦しい物はことごとく焼きすてた。それから老若打ち寄って酒宴をした。それから老人や女は自殺し、幼いものはてんでに刺し殺した。それから庭に大きい穴を掘って死骸を埋めた・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・やがて時が迫って来て彼女の特有な心持ちにはいると、突如全身の情熱を一瞬に集めて恐ろしい破裂となり、熱し輝き煙りつつあるラヴァのごとくに観客の官能を焼きつくす。その感動の烈しさは劇場あって以来かつてない事である。この瞬間には彼女は自己というも・・・ 和辻哲郎 「エレオノラ・デュウゼ」
・・・冷たい夜気が烈しく咽を刺激する。一つの坂をおりきった所で、私は息を切らして歩度を緩めた。前にはまたのぼるべきだらだら坂がある。――この時、突然私を捕えて私の心を急用から引き放すものがあった。私は坂の上に見える深い空をながめた。小径を両側から・・・ 和辻哲郎 「創作の心理について」
出典:青空文庫