・・・と、手を休めて、「乗りなんせい。今度のもおとなしゅうがんすわいの」と言ったかと思うと、またすぐに歌になる。「親が二十で子が二十一。どこで算用が違たやら」「ようい、よい」と野袴の一人が囃す。 横の馬小屋を覗いてみたが、中に馬は・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・その時一羽の鳩が森のおくから飛んで来て、寝ついたなりで日をくらす九十に余るおばあさんの家の窓近く羽を休めました。 物の二十年も臥せったなりのこのおばあさんは、二人のむすこが耕すささやかな畑地のほかに、窓越しに見るものはありませなんだが、・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・私はペンを休めて、耳傾ける。下宿と小路ひとつ距て製糸工場が在るのだ。そこの女工さんたちが、作業しながら、唄うのだ。なかにひとつ、際立っていい声が在って、そいつがリイドして唄うのだ。鶏群の一鶴、そんな感じだ。いい声だな、と思う。お礼を言いたい・・・ 太宰治 「I can speak」
・・・と言って、嫁は縫い物の手を休め、ぼんやり私の顔を見守ります。「いや、針仕事をしながらでいい、落ちついて聞いてくれ。これは、お国のため、というよりは、この町のため、いや、お前たち一家のために是非とも、聞きいれてくれろ。だいいちには、圭吾自・・・ 太宰治 「嘘」
・・・ 大正池の畔に出て草臥れを休めていると池の中から絶えずガラガラガラ何かの機械の歯車の轢音らしいものが聞こえて来る。見ると池の真中に土手のようなものが突出していて、その端の小屋のようなものの中で何かしら機械が運転しているらしい。宿へ帰って・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・の最後の幕で、塹壕のそばの焦土の上に羽を休めた一羽の蝶を捕えようとする可憐なパウルの右手の大写しが現われる。たちまち、ピシンと鞭ではたくような銃声が響く。パウルの手は瞬時に痙攣する、そうして静かに静かに力が抜けて行くのである。 音と光と・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・いずこもわたくしの腰を休めて、時には書を読む処にならざるはない。 真間川の水は絶えず東へ東へと流れ、八幡から宮久保という村へとつづくやや広い道路を貫くと、やがて中山の方から流れてくる水と合して、この辺では珍しいほど堅固に見える石づくりの・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・高い土塀と深い植込とに電車の響も自ずと遠い嵐のように軟げられてしまうこの家の茶室に、自分は折曲げて坐る足の痛さをも厭わず、幾度か湯のたぎる茶釜の調を聞きながら礼儀のない現代に対する反感を休めさせた。 建込んだ表通りの人家に遮ぎられて、す・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・櫂の手を休めたる老人は唖の如く口を開かぬ。ギニヴィアはつと石階を下りて、乱るる百合の花の中より、エレーンの右の手に握る文を取り上げて何事と封を切る。 悲しき声はまた水を渡りて、「……うつくしき……恋、色や……うつろう」と細き糸ふって波う・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・のみならず道楽の念はとにかく道楽の途はまだ開けていなかったから、こうしたい、ああしたいと云う方角も程度も至って微弱なもので、たまに足を伸したり手を休めたりして、満足していたくらいのものだろうと思われる。今日は死ぬか生きるかの問題は大分超越し・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
出典:青空文庫