・・・ しかし恩地小左衛門は、山陰に名だたる剣客であった。それだけにまた彼の手足となる門弟の数も多かった。甚太夫はそこで惴りながらも、兵衛が一人外出する機会を待たなければならなかった。 機会は容易に来なかった。兵衛はほとんど昼夜とも、屋敷・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・しかし家蔵の墨妙の中でも、黄金二十鎰に換えたという、李営丘の山陰泛雪図でさえ、秋山図の神趣に比べると、遜色のあるのを免れません。ですから翁は蒐集家としても、この稀代の黄一峯が欲しくてたまらなくなったのです。 そこで潤州にいる間に、翁は人・・・ 芥川竜之介 「秋山図」
一 白襷隊 明治三十七年十一月二十六日の未明だった。第×師団第×聯隊の白襷隊は、松樹山の補備砲台を奪取するために、九十三高地の北麓を出発した。 路は山陰に沿うていたから、隊形も今日は特別に、四列側面の行・・・ 芥川竜之介 「将軍」
検非違使に問われたる木樵りの物語 さようでございます。あの死骸を見つけたのは、わたしに違いございません。わたしは今朝いつもの通り、裏山の杉を伐りに参りました。すると山陰の藪の中に、あの死骸があったのでございます。あった処でござい・・・ 芥川竜之介 「藪の中」
・・・振り向いて妙見の山影黒きあたりを指しぬ、人々皆かなたを見たり。「我子とは紀州のことなり」源叔父はしばしこぐ手を止めて彦岳の方を見やり、顔赤らめていい放ちぬ。怒りとも悲しみとも恥ともはた喜びともいいわけがたき情胸を衝きつ。足を舷端にかけ櫓・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・南は山影暗くさかしまに映り、北と東の平野は月光蒼茫としていずれか陸、いずれか水のけじめさえつかず、小舟は西のほうをさして進むのである。 西は入り江の口、水狭くして深く、陸迫りて高く、ここを港にいかりをおろす船は数こそ少ないが形は大きく大・・・ 国木田独歩 「少年の悲哀」
・・・この島に生れてこの島に死し、死してはあの、そら今風が鳴っている山陰の静かな墓場に眠る人々の仲間入りして、この島の土となりたいばかり。 お露を妻に持って島の者にならっせ、お前さん一人、遊んでいても島の者が一生養なって上げまさ、と六兵衛が言・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・登りつむればここは高台の見晴らし広く大空澄み渡る日は遠方の山影鮮やかに、国境を限る山脈林の上を走りて見えつ隠れつす、冬の朝、霜寒きころ、銀の鎖の末は幽なる空に消えゆく雪の峰など、みな青年が心を夢心地に誘いかれが身うちの血わくが常なれど、今日・・・ 国木田独歩 「わかれ」
農民の五月祭を書けという話である。 ところが、僕は、まだ、それを見たことがない。昨年、山陰地方で行われたという、××君の手紙である。それが、どういう風だったか、僕はよく知らない。 そこで困った。 全然知らんこと・・・ 黒島伝治 「鍬と鎌の五月」
・・・その語る言葉は、日本語にちがいなく、畿内、山陰、西南海道の方言がまじっていて聞きとりがたいところもあったけれど、かねて思いはかっていたよりは了解がやさしいのであった。ヤアパンニアの牢のなかで一年をすごしたシロオテは、日本の言葉がすこし上手に・・・ 太宰治 「地球図」
出典:青空文庫