・・・鶏や犬はこの響きに驚き、それぞれ八方へ逃げまわった。殊に犬は吠え立てながら、尾を捲いて縁の下へはいってしまった。「あの飛行機は落ちはしないか?」「大丈夫。……兄さんは飛行機病と云う病気を知っている?」 僕は巻煙草に火をつけながら・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・人が皆席を立って動く。八方から、丁度熱に浮かされた譫語のような、短い問や叫声がする。誰やらが衝立のような物の所へ駆け附けた。「電流を。電流を。」押えたような検事の声である。 ぴちぴちいうような微かな音がする。体が突然がたりと動く。革・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ママ、ごよごよは出たり引いたり、ぐれたり、飲んだり、八方流転の、そして、その頃はまた落込みようが深くって、しばらく行方が知れなかった。ほども遠い、……奥沢の九品仏へ、廓の講中がおまいりをしたのが、あの辺の露店の、ぼろ市で、着たのはくたびれた・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・お出入が八方に飛出すばかりでも、二千や三千の提灯は駈けまわろうというもんです。まあ察しても御覧なさい。 これが下々のものならばさ、片膚脱の出刃庖丁の向う顧巻か何かで、阿魔! とばかりで飛出す訳じゃアあるんだけれど、何しろねえ、御身分が御・・・ 泉鏡花 「清心庵」
・・・波の重るような、幾つも幾つも、颯と吹いて、むらむらと位置を乱して、八方へ高くなります。 私はもう、それまでに、幾度もその渦にくるくると巻かれて、大な水の輪に、孑孑虫が引くりかえるような形で、取っては投げられ、掴んでは倒され、捲き上げては・・・ 泉鏡花 「雪霊続記」
・・・梅水の主人は趣味が遍く、客が八方に広いから、多方面の芸術家、画家、彫刻家、医、文、法、理工の学士、博士、俳優、いずれの道にも、知名の人物が少くない。揃った事は、婦人科、小児科、歯科もある。申しおくれました、作家、劇作家も勿論ある。そこで、こ・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・小児の手からは、やや着弾距離を脱して、八方こっちへ近づいた処を、居士が三度続けて打った。二度とも沈んで、鼠の形が水面から見えなくなっては、二度とも、むくむくと浮いて出て、澄ましてまた水を切りましたがね、あたった! と思う三度の時には、もう沈・・・ 泉鏡花 「半島一奇抄」
・・・籬ほどもない低い石垣を根に、一株、大きな柳があって、幹を斜に磧へ伸びつつ、枝は八方へ、座敷の、どの窓も、廂も、蔽うばかり見事に靡いている。月には翡翠の滝の糸、雪には玉の簾を聯ねよう。 それと、戸前が松原で、抽でた古木もないが、ほどよく、・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・ この騒ぎは――さあ、それから多日、四方、隣国、八方へ、大波を打ったろうが、――三年の間、かたい慎み―― だッてね、お京さんが、その女の事については、当分、口へ出してうわささえしなければ、また私にも、話さえさせなかったよ・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・客待ちしていた俥を呼留め、飛乗りざまに幌を深く卸させて神田へと急がし、只ある伯爵家の裏門の前で俥を停めさせて、若干の代を取らすや否や周章てて潜門の奥深く消えたという新聞は尋常事ならず思われて、噂は忽ち八方に広がった。歓楽湧くが如き仮装の大舞・・・ 内田魯庵 「四十年前」
出典:青空文庫