・・・これには勇み立った遠藤も、さすがに胆をひしがれたのでしょう、ちょいとの間は不思議そうに、あたりを見廻していましたが、忽ち又勇気をとり直すと、「魔法使め」と罵りながら、虎のように婆さんへ飛びかかりました。 が、婆さんもさるものです。ひ・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・仁右衛門はそれを赤坊に飲ませろとさし出されたが、飲ませるだけの勇気もなかった。妻は甲斐甲斐しく良人に代った。渇き切っていた赤坊は喜んでそれを飲んだ。仁右衛門は有難いと思っていた。「わしも子は亡くした覚えがあるで、お主の心持ちはようわかる・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ すなわち真の詩人とは、自己を改善し自己の哲学を実行せんとするに政治家のごとき勇気を有し、自己の生活を統一するに実業家のごとき熱心を有し、そうしてつねに科学者のごとき明敏なる判断と野蛮人のごとき卒直なる態度をもって、自己の心に起りくる時・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・腮が動く、目が光って来た、となると、擬勢は示すが、もう、魚の腹を撲りつけるほどの勇気も失せた。おお、姫神――明神は女体にまします――夕餉の料に、思召しがあるのであろう、とまことに、平和な、安易な、しかも極めて奇特な言が一致して、裸体の白い娘・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
一 臆病者というのは、勇気の無い奴に限るものと思っておったのは誤りであった。人間は無事をこいねがうの念の強ければ、その強いだけそれだけ臆病になるものである。人間は誰とて無事をこいねがうの念の無いものは無・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・「今の僕なら、どうせ、役場の書記ぐらいで満足しとるのやもの、徴兵の徴の字を見ても、ぞッとする程の意気地なしやけど、あの時のことを思うたら、不思議に勇気が出たもんや。それも大勢のお立て合う熱に浮されたと云うたら云えんこともなかろう。もう、死ん・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・あたかも私の友人の家で純粋セッター種の仔が生れたので、或る時セッター種の深い長い艶々した天鵞絨よりも美くしい毛並と、性質が怜悧で敏捷こく、勇気に富みながら平生は沈着いて鷹揚である咄をして、一匹仔犬を世話をしようかというと、苦々しい顔をして、・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・たといわれわれがイクラやりそこなってもイクラ不運にあっても、そのときに力を回復して、われわれの事業を捨ててはならぬ、勇気を起してふたたびそれに取りかからなければならぬ、という心を起してくれたことについて、カーライルは非常な遺物を遺してくれた・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・ そして、海の中に身を投げて死ぬほどの勇気もなく、いたずらに、醜く年を取って木の枯れるように死んでしまうことが、その美しい死に較べたら、どんなにか陰気で、また暗い事実でありましたでしょう? 日が沈むころになると、毎日のように、海岸を・・・ 小川未明 「明るき世界へ」
・・・ その人の生れたところの風土や、また生活状態等が文章と離れることのできない有機的関係を持つといわれるのも、考えれば、当然のことであります。私達はそこに、文章の面白味を知り、また個々の性格を知り多元的な生存の特質を知り、さらに人生の何たる・・・ 小川未明 「読むうちに思ったこと」
出典:青空文庫