・・・「やたらに煩瑣で、そうして定理ばかり氾濫して、いままでの数学は、完全に行きづまっている。一つの暗記物に堕してしまった。このとき、数学の自由性を叫んで敢然立ったのは、いまのその、おじいさんの博士であります。えらいやつなんだ。もし探偵にでもなっ・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・自分の行きたくて行かれない処の話を、人伝に聞いては満足が出来なくたった。あらゆる面白い事のあるウィインは鼻の先きにある。それを行って見ずに、ぐずぐずしていて、朝夕お極まりに涌き上がって来る、悲しい霧を見ているのである。実に退屈である。ドリス・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・富士の美しく霞んだ下に大きい櫟林が黒く並んで、千駄谷の凹地に新築の家屋の参差として連なっているのが走馬燈のように早く行き過ぎる。けれどこの無言の自然よりも美しい少女の姿の方が好いので、男は前に相対した二人の娘の顔と姿とにほとんど魂を打ち込ん・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・沢の奥の行きづまりには崩れかかったプールの廃墟に水馬がニンプの舞踊を踊っている。どこか泉鏡花の小説を想わせるような雰囲気を感じる。 翌日自動車で鬼押出の溶岩流を見物に出かけた。千ヶ滝から峰の茶屋への九十九折の坂道の両脇の崖を見ると、上か・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・「じゃ私も行きます」桂三郎も素直に応じた。「だが会社の方へ悪いようだったら」「それは叔父さん、いいんです」 私は支度を急がせた。 雪江は鏡台に向かって顔を作っていたが、やがて派手な晴衣を引っぴろげたまま、隣の家へ留守を頼・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・それはいずこも松の並木の聳えている砂道で、下肥を運ぶ農家の車に行き逢う外、殆ど人に出会うことはない。洋服をきたインテリ然たる人物に行逢うことなどは決してない。しかし人家はつづいている。人家の中には随分いかめしい門構に、高くセメントの塀を囲ら・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・「かくてあらんため――北の方なる試合に行き給え。けさ立てる人々の蹄の痕を追い懸けて病癒えぬと申し給え。この頃の蔭口、二人をつつむ疑の雲を晴し給え」「さほどに人が怖くて恋がなろか」と男は乱るる髪を広き額に払って、わざとながらからからと笑う・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・一方であの荒鷲のやうなニイチェは、もつと勇敢に正面から突撃して行き、彼の師匠が憎悪して居たところの、すべての Homo と現象に対して復讐した。言はばニイチェは、師匠の仇敵を討つた勇士のやうなものである。文部省の教科書でも、ニイチェは大に賞・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・ 仲間の人たちは、助け出そうとしましたけれど、水の中へ溺れるように、石の下へ私の恋人は沈んで行きました。そして、石と恋人の体とは砕け合って、赤い細い石になって、ベルトの上へ落ちました。ベルトは粉砕筒へ入って行きました。そこで鋼鉄の弾丸と・・・ 葉山嘉樹 「セメント樽の中の手紙」
・・・このごろ、子供たちがよくカニとりに行き、何十匹もとって来てオカズ代りになることが多い。しかし、これはほとんど技術が入らず、釣りのうちに入るかどうかわからない。 そこへ行くと、イイダコの方はちょっと技術を要する。イイダコはあまり深くない砂・・・ 火野葦平 「ゲテ魚好き」
出典:青空文庫