・・・どれほど好いかしれぬ。満洲の野は荒漠として何もない。畑にはもう熟しかけた高粱が連なっているばかりだ。けれど新鮮な空気がある、日の光がある、雲がある、山がある、――すさまじい声が急に耳に入ったので、立ち留まってかれはそっちを見た。さっきの汽車・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・それで何でも人からくれるものが善いものであれば何もおせっかいな詮議などはしないで単純にそれを貰って、直接くれたその人に御礼を云うのが、通例最も賢い人であり、いつでも最も幸福な人である。」 この文辞の間にはラスキンの癇癪から出た皮肉も交じ・・・ 寺田寅彦 「浅草紙」
・・・しかし今になって考えてみると、かなり数奇の生涯を体験した政客であり同時に南画家であり漢詩人であった義兄春田居士がこの芭蕉の句を酔いに乗じて詠嘆していたのはあながちに子供らを笑わせるだけの目的ではなかったであろうという気もするのである。そうし・・・ 寺田寅彦 「思い出草」
・・・これも今しがた飲んだ一杯のコーヒーの酔いの効果であるかもしれない。 寺田寅彦 「コーヒー哲学序説」
・・・遊芸をみっちり仕込んだ嫖致の好い姉娘は、芝居茶屋に奉公しているうちに、金さんと云う越後産の魚屋と一緒になって、小楽に暮しているが、爺さんの方へは今は余り寄りつかないようにしている。「私も花をあんなものにくれておくのは惜しいでやすよ。多度・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・行儀の好いのが孝ではない。また曰うた、今之孝者是謂能養、至犬馬皆能有養、不敬何以別乎。体ばかり大事にするが孝ではない。孝の字を忠に代えて見るがいい。玉体ばかり大切する者が真の忠臣であろうか。もし玉体大事が第一の忠臣なら、侍医と大膳職と皇宮警・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・新橋の待合所にぼんやり腰をかけて、急しそうな下駄の響と鋭い汽笛の声を聞いていると、いながらにして旅に出たような、自由な淋しい好い心持がする。上田敏先生もいつぞや上京された時自分に向って、京都の住いもいわば旅である。東京の宿も今では旅である。・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・二声で好い声だと思うた」と再び床柱に倚りながら嬉しそうに云う。この髯男は杜鵑を生れて初めて聞いたと見える。「ひと目見てすぐ惚れるのも、そんな事でしょか」と女が問をかける。別に恥ずかしと云う気色も見えぬ。五分刈は向き直って「あの声は胸がすくよ・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・「贈りまつれる薔薇の香に酔いて」とのみにて男は高き窓より表の方を見やる。折からの五月である。館を繞りて緩く逝く江に千本の柳が明かに影をひたして、空に崩るる雲の峰さえ水の底に流れ込む。動くとも見えぬ白帆に、人あらば節面白き舟歌も興がろう。・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・例を挙げると、いくらもあるが、丸橋忠弥とかいう男が、酒に酔いながら、濠の中へ石を抛げて、水の深浅を測るところが、いかにも大事件であるごとく、またいかにも豪そうな態度で、またいかにも天下の智者でなくっちゃ、こんな真似はできないぞと云わぬばかり・・・ 夏目漱石 「明治座の所感を虚子君に問れて」
出典:青空文庫