・・・ お君は、あざ笑いながら、台どころに働いている母にお燗の用意を命じた。 僕は何だか吉弥もいやになった、井筒屋もいやになった、また自分自身をもいやになった。 僕が帰りかけると、井筒屋の表口に車が二台ついた。それから降りたのは四十七・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ 今なら三千円ぐらいは素丁稚でも造作もなく儲けられるが、小川町や番町あたりの大名屋敷や旗下屋敷が御殿ぐるみ千坪十円ぐらいで払下げ出来た時代の三千円は決して容易でなかったので、この奇利を易々と攫んだ椿岳の奇才は天晴伊藤八兵衛の弟たるに恥じ・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・一代の奇才は死の瞬間までも世間を茶にする用意を失わなかったが、一人の友人の見舞うものもない終焉は極めて淋しかった。それほど病気が重くなってるとは知らなかったので、最一度尋ねるつもりでツイそれなりに最後の皮肉を訊かずにしまったのを今なお残惜し・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・しかし簡単ではあるが容易ではありませんでした。世に御し難いものとて人間の作った沙漠のごときはありません。もしユトランドの荒地がサハラの沙漠のごときものでありましたならば問題ははるかに容易であったのであります。天然の沙漠は水をさえこれに灑ぐを・・・ 内村鑑三 「デンマルク国の話」
・・・ただ、しかしその幸福の島へいくのが容易でない。波が荒いし、恐ろしい風が吹く、また、深い海の中には魔物がすんでいて、通る船を覆してしまう。だれも、まだその島にいったものがないが、島には、人間が住んでいるということだ。また幸福の島の女は、天使の・・・ 小川未明 「明るき世界へ」
・・・その島へ渡るまでには怖ろしい風の吹いているところがある。また、大波の渦巻いているところがある。魔物のすんでいる深い海をも通らなければならない。その用意が十分できるなら、ゆけないこともないだろう。」と、なんでも知っている老人は答えました。・・・ 小川未明 「明るき世界へ」
・・・お部屋の用意をしてお待ち申しておりやんすによって、どうぞごゆるりお越し下されやんせッ」 あっという間に、闇の中へ走りだしてしまった。 私はことの意外におどろいた。「あ、ちょっと……。宿はどこですか。どの道を行くんですか。ここ真っ・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・ 私もゲラゲラと笑ったが、笑いながら武田さんの眼を見て、これは容易ならん眼だと思った。その眼は稍眇眼であった。斜視がかっていた。だから、じっとこちらを見ているようで、ふとあらぬ方向を凝視している感じであった。こんな眼が現実の底の底まで見・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
・・・ 看護手交代! 用意! 担え!」 号令を掛けたのは我衛生隊附のピョートル、イワーヌイチという看護長。頗る背高で、大の男四人の肩に担がれて行くのであるが、其方へ眼を向けてみると、まず肩が見えて、次に長い疎髯、それから漸く頭が見えるのだ。・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・あと十日と迫ったおせいの身体には容易ならぬ冒険なんだが、産婆も医者もむろん反対なんだが、弟につれさせて仙台へやっちまう。それから自分は放浪の旅に出る。 仙台行きには、おせいもむろん反対だった。そのことでは「蠢くもの」時分よりもいっそう険・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
出典:青空文庫