・・・私は「あした石膏を用意して来よう」とも云いました。けれどもそれよりいちばんいいことはやっぱりその足あとを切り取って、そのまま学校へ持って行って標本にすることでした。どうせまた水が出れば火山灰の層が剥げて、新らしい足あとの出るのはたしかでした・・・ 宮沢賢治 「イギリス海岸」
・・・わめくも歌うも容易のこっちゃありませんよ」「そうでしょうね。だけどここから見ているとほんとうに風はおもしろそうですよ。僕たちも一ぺん飛んでみたいなあ」「飛べるどこじゃない。もう二か月お待ちなさい。いやでも飛ばなくちゃなりません」・・・ 宮沢賢治 「おきなぐさ」
・・・価いしないと云うのではなく、正反対に、本当の恋愛は人間一生の間に一遍めぐり会えるか会えないかのものであり、その外観では移ろい易く見える経過に深い自然の意志のようなものが感じられ、又よき恋愛をすることは容易な業ではないと感じているからです。・・・ 宮本百合子 「愛は神秘な修道場」
・・・ 五ヵ年計画第三年目完成ノタメニ諸君用意シロ! その前に男女一かたまりの農民が並んで立って列車とそこから出て来て散歩している旅客を眺めている。今日も新しいエレバートルを見た。まだすっかり出来上らないで頂上に赤旗がひるがえっていた。・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・誓いの文句などは人のいない時十分考えて用意しているのである。今やかれの心は全く糸の話で充たされてしまった。かれの弁解がいよいよ完全になるだけ、かれの談論がいよいようまくなるだけ、ますますかれは信じられなくなった。『みんな嘘言家の証拠さ』・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・牝牛を買いたく思う百姓は去って見たり来て見たり、容易に決心する事ができないで、絶えず欺されはしないかと惑いつ懼れつ、売り手の目ばかりながめてはそいつのごまかしと家畜のいかさまとを見いだそうとしている。 農婦はその足もとに大きな手籠を置き・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・さてわずかに二三日を隔てて弥一右衛門は立派に切腹したが、事の当否は措いて、一旦受けた侮辱は容易に消えがたく、誰も弥一右衛門を褒めるものがない。上では弥一右衛門の遺骸を霊屋のかたわらに葬ることを許したのであるから、跡目相続の上にも強いて境界を・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・殉死する本人や親兄弟妻子は言うまでもなく、なんの由縁もないものでも、京都から来るお針医と江戸から下る御上使との接待の用意なんぞはうわの空でしていて、ただ殉死のことばかり思っている。例年簷に葺く端午の菖蒲も摘まず、ましてや初幟の祝をする子のあ・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・天界にはいったがためにびくつかないのなら、リアリズムの精神の深さというものは、いつでも天界へはいれる用意だけはしているものである。 宇野浩二氏は親心のびくつく大切な心理を圧えることに用心をされたのではなく、不恰好にそれをださないことに用・・・ 横光利一 「作家の生活」
・・・ 素人の考えではあるが、洋画の行き方で豊太閤の顔を描き出すことは、容易ではあるまい。いかに単純化した手法を用うるにしても、顔面のあらゆる筋肉や影や色を閑却しようとしない洋画家は、歴史上の人物の肖像を描き得るために、モデルを前に置いたと同・・・ 和辻哲郎 「院展遠望」
出典:青空文庫