・・・あるいはまた急に踏まれた安価にまけて、買い手を呼び止める、買い手はそろそろ逃げかけたので、『よろしい、お持ちなされ!』 かれこれするうちに辻は次第に人が散って、日中の鐘が鳴ると、遠くから来た者はみな旅宿に入ってしまった。 シュー・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・ 弥一右衛門はその日詰所を引くと、急使をもって別家している弟二人を山崎の邸に呼び寄せた。居間と客間との間の建具をはずさせ、嫡子権兵衛、二男弥五兵衛、つぎにまだ前髪のある五男七之丞の三人をそばにおらせて、主人は威儀を正して待ち受けている。・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・「少佐殿。お見忘になりましたか知れませんが、戦地でお世話になった輜重輸卒の麻生でござります。」「うむ。軍司令部にいた麻生か。」「はい。」「どうして来た。」「予備役になりまして帰っております。内は大里でございます。少佐殿に・・・ 森鴎外 「鶏」
・・・今はかほどまでに熟睡して、さばれ、いざ呼び起そう」 忍藻の部屋の襖を明けて母ははッとおどろいた。承塵にあッた薙刀も、床にあッたくさりかたびらも、無論三郎がくれた匕首もあたりには影もない。「すわやおれがぬかッたよ。常より物に凝るならい……・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・なおその上に、彼はフランス本国から二十万人を、ライン同盟国から十四万七千人、伊太利から八万人を、波蘭とプロシャとオーストリアから十一万人、これに仏領各地から出さしめた軍隊を合せて七十万人に、加うるに予備隊を合して総数百十万余人の軍勢をドレス・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・ 秋三は乞食から呼び捨てにされる覚えがなかった。「手前、俺を知っているのか?」「知るも知らんもあるものか。汝大きゅうなったやないか。」 秋三は暫く乞食の顔を眺めていた。すると、乞食は焦点の三に分った眼差しで秋三を斜めに見上げ・・・ 横光利一 「南北」
・・・往来から夜の空の見える具合がそういう連想を呼び起こしたのかと思われるが、その時には新しく建設せられる東京がいかにも植民地的であるのを情けなく思った。しかしその後二年もたつとシンガポールの場末という感じはなくなった。おいおい高層建築が立ち並ぶ・・・ 和辻哲郎 「城」
・・・中央大学の予備科に一、二か月席を置いたのも一緒であった。それが九月からは四高と一高とに分かれて三年を送り、久しぶりにまた逢うようになったときに、最初に話して聞かせたのが、四高の名物西田幾多郎先生のことであった。日本には今西田先生ほど深い思想・・・ 和辻哲郎 「初めて西田幾多郎の名を聞いたころ」
出典:青空文庫