・・・という大都会を静かに流れているだけに、その濁って、皺をよせて、気むずかしいユダヤの老爺のように、ぶつぶつ口小言を言う水の色が、いかにも落ついた、人なつかしい、手ざわりのいい感じを持っている。そうして、同じく市の中を流れるにしても、なお「海」・・・ 芥川竜之介 「大川の水」
・・・手前のような老爺になっては、――」 玄象道人はじろりとお蓮を見ると、二三度下びた笑い声を出した。「御生れ年も御存知かな? いや、よろしい、卯の一白になります。」 老人は金襴の袋から、穴銭を三枚取り出した。穴銭は皆一枚ずつ、薄赤い・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・黄の平生密輸入者たちに黄老爺と呼ばれていた話、又湘譚の或商人から三千元を強奪した話、又腿に弾丸を受けた樊阿七と言う副頭目を肩に蘆林譚を泳ぎ越した話、又岳州の或山道に十二人の歩兵を射倒した話、――譚は殆ど黄六一を崇拝しているのかと思う位、熱心・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・ 彼は捕手の役人に囲まれて、長崎の牢屋へ送られた時も、さらに悪びれる気色を示さなかった。いや、伝説によれば、愚物の吉助の顔が、その時はまるで天上の光に遍照されたかと思うほど、不思議な威厳に満ちていたと云う事であった。 ・・・ 芥川竜之介 「じゅりあの・吉助」
・・・これは毎朝川魚を市へ売りに出ます老爺で、その日もまだうす暗いのに猿沢の池へかかりますと、あの采女柳の枝垂れたあたり、建札のある堤の下に漫々と湛えた夜明け前の水が、そこだけほんのりとうす明く見えたそうでございます。何分にも竜の噂がやかましい時・・・ 芥川竜之介 「竜」
・・・丁度、その時、御会席で御膳が出たので、暫くはいろいろな話で賑やかだったが、中洲の大将は、房さんの年をとったのに、よくよく驚いたと見えて、「ああも変るものかね、辻番の老爺のようになっちゃあ、房さんもおしまいだ。」「いつか、あなたがおっ・・・ 芥川竜之介 「老年」
・・・窓からは、朧夜の月の光の下に、この町の堂母なるサン・ルフィノ寺院とその前の広場とが、滑かな陽春の空気に柔らめられて、夢のように見渡された。寺院の北側をロッカ・マジョーレの方に登る阪を、一つの集団となってよろけながら、十五、六人の華車な青年が・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・月もなく、日もなく、樹もなく、草もなく、路もない、雲に似て踏みごたえがあって、雪に似て冷からず、朧夜かと思えば暗く、東雲かと見れば陰々たる中に、煙草盆、枕、火鉢、炬燵櫓の形など左右、二列びに、不揃いに、沢庵の樽もあり、石臼もあり、俎板あり、・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・……その柳の下を、駈けて通る腕車も見えず、人通りはちらほらと、都で言えば朧夜を浮れ出したような状だけれども、この土地ではこれでも賑な町の分。城趾のあたり中空で鳶が鳴く、と丁ど今が春の鰯を焼く匂がする。 飯を食べに行っても可、ちょいと珈琲・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・…… かかる折から、柳、桜、緋桃の小路を、麗かな日に徐と通る、と霞を彩る日光の裡に、何処ともなく雛の影、人形の影がさまよう、…… 朧夜には裳の紅、袖の萌黄が、色に出て遊ぶであろう。 ――もうお雛様がお急ぎ。 と細い段の緋・・・ 泉鏡花 「雛がたり」
出典:青空文庫