・・・今さらどのような事があろうと脇目を振る気はないんですから」 お千代はわけもなくおとよのために泣いて、真からおとよに同情してしまった。その夜のうちにお千代は母に話し母は夫に話す。燃えるようなおとよのことばも、お千代の口から母に話す時は、大・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・で彼は日曜のいい天気なるにもかかわらず何の本か、脇目もふらないで読んでいるので、僕はそのそばに行って、「何を読んでいるのだ」といいながら見ると、洋綴の厚い本である。「西国立志編だ」と答えて顔を上げ、僕を見たその眼ざしはまだ夢の醒めな・・・ 国木田独歩 「非凡なる凡人」
・・・上り下りの電車がホームに到着するごとに、たくさんの人が電車の戸口から吐き出され、どやどや改札口にやって来て、一様に怒っているような顔をして、パスを出したり、切符を手渡したり、それから、そそくさと脇目も振らず歩いて、私の坐っているベンチの前を・・・ 太宰治 「待つ」
・・・少女は果して降りて行く、そのあとから自分も降りながら背後から見ると、束ねた断髪の先端が不揃いに鼠でも齧ったような形になっているのが妙に眼について印象に残った。少女は脇目もふらずにゆっくり楽屋口の方へ歩いて行く。やはりそれに相違なかったのであ・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
・・・そんな人は脇目にはこの簑虫と変ったところはなかったかもしれない。 こんな空想に耽りながら見ていると、簑の上に隙間なく並んでいる葉柄の切片が、なんだかこの隠れた小哲学者の書棚に背皮を並べた書物ででもあるような気がした。 この簑について・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
・・・ そういう晩には綿入羽織をすっぽり頭からかぶって、その下から口笛と共に白い蒸気を吹出しながら、なるべく脇目をしないようにして家路を急いだものである。そういう時にまたよく程近い刑務所の構内でどことなく夜警の拍子木を打つ音が響いていた。そう・・・ 寺田寅彦 「追憶の冬夜」
・・・完全に裸体で豊満な肉体をもった黒髪の女が腕を組んだまま腰を振り振り舞台の上手から下手へ一直線に脇目もふらず通り抜けるというものすごい一景もあった。 要するにレビューというものはただ雑然とした印象系列の偶然な連続としか思われなかった。ワグ・・・ 寺田寅彦 「マーカス・ショーとレビュー式教育」
・・・ 二十歳代の青年期に蜃気楼のような希望の幻影を追いながら脇目もふらずに芸能の修得に勉めて来た人々の群が、三十前後に実世界の闘技場の埒内へ追い込まれ、そこで銘々のとるべきコースや位置が割り当てられる。競技の進行するに従って自然に優勝者と劣・・・ 寺田寅彦 「厄年と etc.」
出典:青空文庫