・・・悲しい追憶の情は、其時、自分の胸を突いて湧き上って来た。自分も矢張その男と同じように、饑と疲労とで慄えたことを思出した。目的もなく彷徨い歩いたことを思出した。恥を忘れて人の家の門に立った時は、思わず涙が頬をつたって流れたことを思出した。・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・ 熱い同情が老人の胸の底から涌き上がった。その体は忽ち小さくなって、頭がぐたりと前に垂れて、両肩がすぼんで、背中が曲がった。丁度水を打ち掛けられた犬のような姿である。そしてあわただしげに右の手をずぼんの隠しに入れてありたけの貨幣を掴み出・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・跡には草原の中には赤い泉が湧き出したように、血を流して、女学生の体が横わっている。 女房は走れるだけ走って、草臥れ切って草原のはずれの草の上に倒れた。余り駆けたので、体中の脈がぴんぴん打っている。そして耳には異様な囁きが聞える。「今血が・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・われらの優しい主を護り、一生永く暮して行こう、と心の底からの愛の言葉が、口に出しては言えなかったけれど、胸に沸きかえって居りました。きょうまで感じたことの無かった一種崇高な霊感に打たれ、熱いお詫びの涙が気持よく頬を伝って流れて、やがてあの人・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・城中は喜びに沸きかえりました。けれども産後のラプンツェルは、日一日と衰弱しました。国中の名医が寄り集り、さまざまに手をつくしてみましたが愈々はかなく、命のほども危く見えました。「だから、だから、」ラプンツェルは、寝床の中で静かに涙を流し・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・それを行って見ずに、ぐずぐずしていて、朝夕お極まりに涌き上がって来る、悲しい霧を見ているのである。実に退屈である。ドリスがいかに巧みに機嫌を取ってくれても、歓楽の天地の閾の外に立って、中に這入る事の出来ない恨を霽らすには足らない。詰まらない・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・日本魂を腐蝕する毒素の代りにそれを現代に活かす霊液でも、捜せばこの智恵の泉の底から湧き出すかもしれない。 電車で逢った老子はうららかであった。電車の窓越しに人の頸筋を撫でる小春の日光のようにうららかであったのである。 ・・・ 寺田寅彦 「変った話」
・・・ルムフォードの有名な実験は「水が沸きさえもした」事に要点があった。ロバート・マイヤーがフラスコの水を打ち振った後にジョリーの室へ駆け込んで "Es ischt so !" と叫んだのは水が「あたたまった」ためで、それが何度点何々上ったためで・・・ 寺田寅彦 「量的と質的と統計的と」
・・・少し少ないけれど、多いと沸きが遅うて」お絹はそう言って、釜の下を覗いたり、バケツに水を汲んできたりした。 湯から上がると、定連の辰之助や、道太の旧知の銀行員浅井が来ていた。六 観劇は案じるよりも産みやすかった。 季節・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・ これは後に知ったことであるが、仮名垣魯文の門人であった野崎左文の地理書に委しく記載されているとおり、下総の国栗原郡勝鹿というところに瓊杵神という神が祀られ、その土地から甘酒のような泉が湧き、いかなる旱天にも涸れたことがないというのであ・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
出典:青空文庫