・・・ああ、わしはどうして孫をあんな恐ろしい所へ遣ったんだろう。なぜ、皆様方は梨の実が欲しいなどと無理な事を仰しゃったのです。可哀そうに、わたくしのたった一人の孫は、こんな酷たらしい姿になってしまいました。ああ、可哀そうに。可哀そうに。」 爺・・・ 小山内薫 「梨の実」
・・・「……そんなわけで、下肥えのかわりに置いて行かれたけど、その日の日の暮れにはもう、腫物の神さんの石切の下の百姓に預けられたいうさかい、親父も気のせわしい男やったが、こっちもこっちで、八月でお母んのお腹飛びだすぐらいやさかい、気の永い方や・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・ よう/\三百の帰った後で、彼は傍で聴いていた長男と顔を見交わして苦笑しながら云った。「……そう、変な奴」 子供も同じように悲しそうな苦笑を浮べて云った。…… 狭い庭の隣りが墓地になっていた。そこの今にも倒れそうになって・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・そして女が帰り仕度をはじめた今頃、それはまた女の姿をあらわして来るのだ。「電車はまだあるか知らん」「さあ、どうやろ」 喬は心の中でもう電車がなくなっていてくれればいいと思った。階下のおかみは「帰るのがお厭どしたら、朝まで寝と・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・杣の入るべき方とばかり、わずかに荊棘の露を払うて、ありのままにしつらいたる路を登り行けば、松と楓樹の枝打ち交わしたる半腹に、見るから清らなる東屋あり。山はにわかに開きて鏡のごとき荻の湖は眼の前に出でぬ。 円座を打ち敷きて、辰弥は病後の早・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・ 水野は、これだけはご免だとまじめで言う、いよいよ他の者はこいつおもしろいと迫る、例の酒癖がついに、本性を現わして螺のようなやつを突きつけながら、罰杯の代にこれだと叫んだ。強迫である。自分はあまりのことだと制止せんとする時、水野、そんな・・・ 国木田独歩 「遺言」
・・・そして真白い歯を露わして、何か云った。彼は、何ということか意味が汲みとれなかった。しかし女が、自分に好感をよせていることだけは、円みのあるおだやかな調子ですぐ分った。彼は追っかけて来ていいことをしたと思った。 帰りかけて、うしろへ振り向・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・と聞いたのは、吾が夫と中村という人とは他の教官達とは全く出が異っていて、肌合の職人風のところが引装わしてもどこかで出る、それは学校なんぞというものとは映りの悪いことである。それを仲の好い二人が笑って話合っていた折々のあるのを知っていたか・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・ ズロースを忘れない娘さん S署から「たらい廻わし」になって、Y署に行った時だった。 俺の入った留置場は一号監房だったが、皆はその留置場を「特等室」と云って喜んでいた。「お前さん、いゝ処に入れてもらったよ。」・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・その中には小説の書き掛けがあったり、種々な劇詩の計画を書いたものがあったり、その題目などは二度目に版にした透谷全集の端に序文の形で書きつけて置いたが、大部分はまあ、遺稿として発表する事を見合わした方が可いと思った位で、戯曲の断片位しか、残っ・・・ 島崎藤村 「北村透谷の短き一生」
出典:青空文庫