・・・ 夫はタイを結びながら、鏡の中のたね子に返事をした。もっともそれは箪笥の上に立てた鏡に映っていた関係上、たね子よりもむしろたね子の眉に返事をした――のに近いものだった。「だって帝国ホテルでやるんでしょう?」「帝国ホテル――か?」・・・ 芥川竜之介 「たね子の憂鬱」
・・・「それはそうだ。タイプライタアなどは幾らかになるだろう」「ええ、それから画などもあるし」「次手にNさんの肖像画も売るか? しかしあれは……」 僕はバラックの壁にかけた、額縁のない一枚のコンテ画を見ると、迂濶に常談も言われない・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・プラトンのように寓話的なもの、ショウペンハウエルのように形而上学的なもの、エレン・ケイのような人格主義的なもの、フロイドのように生理・心理学的なもの、スタンダールのように情緒的直観的のもの、コロンタイのように階級的社会主義的のもの、その他幾・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・、音楽家や、画家、小説家のような芸術的天分ある婦人や、科学者、女医等の科学的才能ある婦人、また社会批評家、婦人運動実行家等の社会的特殊才能ある婦人はいうまでもなく、教員、記者、技術家、工芸家、飛行家、タイピストの知能的職業方面への婦人の進出・・・ 倉田百三 「婦人と職業」
・・・ 郵便局では、隣にある電信隊の兵タイが、すぐやってきて、札を透かしたり指でパチ/\はじいたりした。珍しそうにそれを眺め入った。「うまくやる奴もあるもんだね。よくこんなに細かいところまで似せられたもんだ。」「すかしが一寸、はっきり・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・……兵タイも沢山死んどるだ。」「うそ云え!」兵士は、百姓の頬をぴしゃりとやった。「一寸来い。中隊まで来い!」 日本の兵士が雪に埋れていることが明かになった。背嚢の中についていた記号は、それが、松木と武石の中隊のものであることを物語っ・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・ 貴様ら、横着をして兵タイのいるいい道を選って行っとるんだろう。この荷物は急ぐんだぞ。これ、こんな催促の手紙が来とるんだぞ!」 朝、深沢洋行のおやじは、ねむげな眼に眼糞をつけて支那人部屋にはいってきた。呉清輝と田川とは、傷の痛さに唸りな・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・「寒い満洲でも、兵タイは、こういう温い部屋に起居して居るんで……」「はア、なる程。」特派員は、副官の説明に同意するよりさきに、部屋の内部の見なれぬ不潔さにヘキエキした。が、すぐ、それをかくして、「この中隊が、嫩江を一番がけに渡ったん・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・ 少佐がどうして彼を従卒にしたか、それは、彼がスタイルのいい、好男子であったからであった。そのおかげで彼は打たれたことはなかった。しかし、彼は、なべて男が美しい女を好くように、上官が男前だけで従卒をきめ、何か玩弄物のように扱うのに反感を・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・百姓達には少しも日本の兵タイを恐れるような様子が見えなかった。 通訳は、この村へパルチザンが逃げこんで来ただろう。それを知らぬかときいているらしかった。 いくらミリタリストのチャキチャキでも、むちゃくちゃに百姓を殺す訳にや行かなかっ・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
出典:青空文庫