・・・ 無言の何分かが過ぎ去った後、突然少将は室外に、かすかなノックの音を聞いた。「おはいり。」 その声と同時に室の中へは、大学の制服を着た青年が一人、背の高い姿を現した。青年は少将の前に立つと、そこにあった椅子に手をやりながら、ぶっ・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・ やがてその部屋の戸をジムがノックしました。ノックするとは這入ってもいいかと戸をたたくことなのです。中からはやさしく「お這入り」という先生の声が聞こえました。僕はその部屋に這入る時ほどいやだと思ったことはまたとありません。 何か書き・・・ 有島武郎 「一房の葡萄」
・・・額の油汗拭わんと、ぴくとわが硬直の指うごかした折、とん、とん、部屋の外から誰やら、ドアをノックする。ヒロオは、恐怖のあまり飛びあがった。ノックは、無心に、つづけられる。とん、とん、とん。ヒロオはその場で気が狂ったか、どうか、私はその後の筋書・・・ 太宰治 「音に就いて」
・・・ 夕方、田島は、世田谷のキヌ子のアパートを捜し当てた。古い木造の陰気くさい二階建のアパートである。キヌ子の部屋は、階段をのぼってすぐ突当りにあった。 ノックする。「だれ?」 中から、れいの鴉声。 ドアをあけて、田島はおど・・・ 太宰治 「グッド・バイ」
・・・わたくしはみんなにも挨拶して廻り、所長が出て来るや否や、その扉をノックしてはいって行きました。「あ帰ったかね。どうだった。」所長は左手ではずれたカラーのぼたんをはめながら云いました。「はい、お陰で昨晩戻って参りました。これは報告でご・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・家族の晩餐のためにも礼装に着かえる某々卿にとって、ノックされるのが何より厭な暗い性のドアを、ローレンスはフランネル・シャツを着ている男にノックさせた。因習によって無知にされ、そのかげでは人間性の歪められている性の問題のカーテンを、ゆすぶらせ・・・ 宮本百合子 「傷だらけの足」
ここに一枚のスケッチがある。のどもとのつまった貧しい服装をした中年の女がドアの前に佇み、永年の力仕事で節の大きく高くなった手で、そのドアをノックしている。貧しさの中でも慎しみぶかく小ざっぱりとかき上げられて、かたく巻きつけ・・・ 宮本百合子 「ケーテ・コルヴィッツの画業」
・・・ 白い上っぱりをはおった助手がドアをノックして入って来た。片隅で煮えている液体の状態を調べてから出て行った。その薬液は、きまった時間をおいて、慎重に観察されながら煮られなければならないものらしかった。 礼儀正しく助手のひとが入って来・・・ 宮本百合子 「風知草」
・・・ある一つのドアをノックしました。そのクリーム色に塗られた近代風のドアが開くと、その一間住宅であるアパートメントの瀟洒な布張のアーム・チェアに細君がかけて編物をしています。ドアを開けてくれたのはそこの主人でした。 シカゴ市の有名な建築家で・・・ 宮本百合子 「よろこびの挨拶」
出典:青空文庫