・・・すばらしいバリトン。よして下さい、ばかばかしい。僕んところは親の代から音痴なんです。何か御用? 奥田先生なら、ついさっき帰ったようですよ。 いいえ、兄さんに逢いに来たんじゃないんです。本日は、野中弥一先生にお目にかかりたくてまいりま・・・ 太宰治 「春の枯葉」
・・・背の低い肥ったバリトン歌手のシニョル・サルヴィは大きな腹を突き出して、「ストロンボーリ、ストロンボーリ」とどなりながら甲板を忙しげに行ったり来たりしていた。故国に近づく心の興奮をおさえきれないように、あるいはまたこの「地中海の燈台」と言われ・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・と四拍子の簡単な旋律を少しぼやけた中空なバリトンで歌い歩くのがいた。その大きなまっかな張り抜きの唐辛子の横腹のふたをあけると中に七味唐辛子の倉庫があったのである。この異風な物売りはあるいは明治以後の産物であったかもしれない。「お銀が作っ・・・ 寺田寅彦 「物売りの声」
出典:青空文庫