・・・僕は時々ビスケットなどを持ち、彼のいる書生部屋へ見舞いに行った。彼はいつも床の上に細い膝を抱いたまま、存外快濶に話したりした。しかし僕は部屋の隅に置いた便器を眺めずにはいられなかった。それは大抵硝子の中にぎらぎらする血尿を透かしたものだった・・・ 芥川竜之介 「彼」
・・・ これは唯のビスケットだがね。………そら、さっき黄六一と云う土匪の頭目の話をしたろう? あの黄の首の血をしみこませてあるんだ。これこそ日本じゃ見ることは出来ない。」「そんなものを又何にするんだ?」「何にするもんか? 食うだけだよ。こ・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・たとえばチブスの患者などのビスケットを一つ食った為に知れ切った往生を遂げたりするのは食慾も死よりは強い証拠である。食慾の外にも数え挙げれば、愛国心とか、宗教的感激とか、人道的精神とか、利慾とか、名誉心とか、犯罪的本能とか――まだ死よりも強い・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・その途中の廊下に待っていて、僕たちは、おとなの諸君には、ビスケットの袋を、少年少女の諸君には、塩せんべいと餡パンとを、呈上した。区役所の吏員や、白服の若い巡査が「お礼を言って、お礼を言って」と注意するので、罹災民諸君はいちいちていねいに頭を・・・ 芥川竜之介 「水の三日」
・・・備えたのはビスケットである。これはいささか稚気を帯びた。が、にれぜん河のほとり、菩提樹の蔭に、釈尊にはじめて捧げたものは何であろう。菩薩の壇にビスケットも、あるいは臘八の粥に増ろうも知れない。しかしこれを供えた白い手首は、野暮なレエスから出・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・おいしい パンや ビスケットを なげて くれました。子ぐまは ときどき おかあさんを おもいだして、「ウオー。」と、なきます。 小川未明 「しろくまの 子」
・・・その「煙のビスケット」が生物のように緩やかに揺曳していると思うと真中の処が慈姑の芽のような形に持上がってやがてきりきりと竜巻のように巻き上がる。この現象の面白さは何遍繰返しても飽きないものである。 物理学の実験に煙草の煙を使ったことはし・・・ 寺田寅彦 「喫煙四十年」
・・・それは、そのころどこかからもらった高価な舶来ビスケットの箱が錠前付きのがんじょうなブリキ製であったが、その上面と四方の面とに実に美しい油絵が描かれていた。その絵の一つが英国の田舎の風景で、その中に乗客を満載した一台の郵便馬車が進行している。・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
・・・茶をのんで粗末なビスケットを二つ三つかじる。娘は毛布をかけてねたまま手を出してビスケットを取って食っている。スグまた室を出る。鴨が沢山ついていて、釣船もボツボツ見える。だいぶ浦戸に近よった。煙突の下で立ちながらめしを食っている男がある。例の・・・ 寺田寅彦 「高知がえり」
・・・ 帰りに追分辺でミルクの缶やせんべい、ビスケットなど買った。焼けた区域に接近した方面のあらゆる食料品屋の店先はからっぽになっていた。そうした食料品の欠乏が漸次に波及して行く様が歴然とわかった。帰ってから用心に鰹節、梅干、缶詰、片栗粉など・・・ 寺田寅彦 「震災日記より」
出典:青空文庫