一 なぜファウストは悪魔に出会ったか? ファウストは神に仕えていた。従って林檎はこういう彼にはいつも「智慧の果」それ自身だった。彼は林檎を見る度に地上楽園を思い出したり、アダムやイヴを思い出したりしていた。・・・ 芥川竜之介 「三つのなぜ」
・・・ 保吉は悪魔の微笑の中にありありとファウストの二行を感じた。――「一切の理論は灰色だが、緑なのは黄金なす生活の樹だ!」 彼は悪魔に別れた後、校舎の中へ靴を移した。教室は皆がらんとしている。通りすがりに覗いて見たら、ただある教室の黒板・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・ それは三、四年前に、マローの『ファウスト』とかスペンサーの或る作とかを頻りに耽読していられた事から見ても解るであろう。 内田魯庵 「温情の裕かな夏目さん」
・・・ ダンテを徳に導いた淑女ベアトリーチェ。ファウスト第二部の天上のグレーチヘン。 これらは不幸な、あるいは酬いられぬ恋であったとはいえ、恋を通して人間の霊魂の清めと高めとの雛型である。古くはあるが常に新しい――永遠の物語である。 ・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・ この上むりして努めてみたって、たいしたことにもなるまい、こうして段々老いてゆくのだ、と気がついたときは、人は、せめて今いちどの冒険に、あこがれるようにならぬものであろうか。ファウストは、この人情の機微に就いて、わななきつつ書斎で独語してい・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・このごろは、まるで、ファウストですよ。あの老博士の書斎での呟きが、よくわかるようになりました。ひどく、ふけちゃったんですね。ナポレオンが三十すぎたらもう、わが余生は、などと言っていたそうですが、あれが判って、可笑しくて仕様が無い。」「余・・・ 太宰治 「鴎」
・・・どうも、この、恋人の兄の軍曹とか伍長とかいうものは、ファウストの昔から、色男にとって甚だ不吉な存在だという事になっている。 その兄が、最近、シベリヤ方面から引揚げて来て、そうして、ケイ子の居間に、頑張っているらしいのである。 田島は・・・ 太宰治 「グッド・バイ」
・・・あなたは青春を恢復したファウスト博士のようです。」「すると、メフィストフェレスは、この佐伯君という事になりますね。」私は、年齢を忘れて多少はしゃいでいた。「これが、むく犬の正体か。旅の学生か。滑稽至極じゃ。」 たわむれて佐伯の顔を覗・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・作者は、ゲエテをもクライストをもただ型としての概念でだけ了解しているようである。作者は、ファウストの一頁も、ペンテズイレエアの一幕も、おそらくは、読んだことがないのではあるまいか。失礼。ことにこの小説の末尾には、毛をむしられた鶴のばさばさし・・・ 太宰治 「猿面冠者」
・・・また、ファウストのメフィストだけを気取り、グレエトヘンの存在をさえ忘れている復讐の作家もある。私には、どちらとも審判できないのであるが、これだけは、いい得る。窓ひらく。好人物の夫婦。出世。蜜柑。春。結婚まで。鯉。あすなろう。等々。生きている・・・ 太宰治 「もの思う葦」
出典:青空文庫