・・・の伝記の起源が、馬太伝の第十六章二十八節と馬可伝の第九章一節とにあると云うベリンググッドの説を挙げて、一先ずペンを止める事にしようと思う。 芥川竜之介 「さまよえる猶太人」
・・・目を見交したばかりで、かねて算した通り、一先ず姿を隠したが、心の闇より暗かった押入の中が、こう物色の出来得るは、さては目が馴れたせいであろう。 立花は、座敷を番頭の立去ったまで、半時ばかりを五六時間、待飽倦んでいるのであった。(まず・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・それまでは一先ず婚約という形式にしたいと申出た。なんといってもまだ若い、急ぐに及ばないという意見であった。いくらかの不安もあったろうか。 ところが、すっかりその娘さんが気に入ってしまった彼は、すぐ結婚式を挙げたいと駄々をこねた。娘さんの・・・ 織田作之助 「十八歳の花嫁」
・・・上京した彼女が一先ず落ち着いた所は、ところもあろうに昔彼女が世話になったことのあるいかがわしい周旋屋であった。文部省へ出頭する口実を設けてしばしば上京するたび、宿屋へ呼び寄せて会うていた校長は、さすがに彼女のいわゆる「叔母の家」の怪しさを嗅・・・ 織田作之助 「世相」
・・・ぼくの物心ついた頃、親爺は貧乏官吏から一先ず息をつけていたのですが、肺病になり、一家を挙げて鎌倉に移りました。父はその昔、一世を驚倒せしめた、歴史家です。二十四歳にして新聞社長になり、株ですって、陋巷に史書をあさり、ペン一本の生活もしました・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・軒端の材木から、熱のためにガスが噴き出て、それに一先ず点火されるのであろう。また、ちょろちょろと、青白い焔が軒端を伝って伸びて、と思うと、ちちと縮まり焔の列が短かくなり、また、ちょろちょろと伸びる。行きつ、戻りつ、それを、五、六度、繰りかえ・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・それがどうやら今日までで一先ず片付いて妹はともかく国の親類で引取る事になった。それで今朝汽車が出てしまって改札口へ引返すと同時に、なんだか気抜けがしたように、プラットフォームの踏心も軽く停車場を出ると空はよく晴れて快い日影を隠す雲もない。久・・・ 寺田寅彦 「障子の落書」
・・・明治の初年に狂気のごとく駈足で来た日本も、いつの間にか足もとを見て歩くようになり、内観するようになり、回顧もするようになり、内治のきまりも一先ずついて、二度の戦争に領土は広がる、新日本の統一ここに一段落を劃した観がある。維新前後志士の苦心も・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・ 然し、わたしは一先ずここで、この記録はうち切りたいと思う。後から後からの愉快なニュースは、別にニュースとして報告しつづけて行こう。 この中に、書きもらされている部分の或る点は、内外社出版の『綜合プロレタリア芸術講座』第一巻にある。・・・ 宮本百合子 「五ヵ年計画とソヴェトの芸術」
・・・愛をもってその人の幸福をねがっている男が、自分に起った出征ということから予想される様々の場合を深く考えて、対手の女には遂に心を語らずに出発して行くこととか、婚約を一先ず解いて、女の運命を混乱から守っておいてやる、というような行動が、勇敢な男・・・ 宮本百合子 「これから結婚する人の心持」
出典:青空文庫