・・・すると眼の下の床へぱたりと一疋の玉虫が落ちた。仰向きに泥だらけの床の上に落ちて、起き直ろうとして藻掻いているのである。しばらく見ていたが乗客のうちの誰もそれを拾い上げようとする人はなかった。自分はそっとこの甲虫をつまみ上げてハンケチで背中の・・・ 寺田寅彦 「さまよえるユダヤ人の手記より」
・・・ 真円く拡がった薔薇の枝の冠の上に土色をした蜥蜴が一疋横たわっていた。じっとしていわゆる甲良を干しているという様子であった。しかしおそらくそんな生温かい享楽のためではなくて、これもまたもっとせっぱつまった生存の権利を主張するために何かを・・・ 寺田寅彦 「蜂が団子をこしらえる話」
・・・かなりに長いこの阪の凸凹道にただ一つの燈火とそのまわりの茂りのさまは、たださえ一種の強い印象を与えるのであるが、一層自分の心を引いたのはその街燈に止った一疋の小さいやもりであった。汚れ煤けたガラスに吸い付いたように細長いからだを弓形に曲げた・・・ 寺田寅彦 「やもり物語」
・・・ この時いずくよりか二疋の蟻が這い出して一疋は女の膝の上に攀じ上る。おそらくは戸迷いをしたものであろう。上がり詰めた上には獲物もなくて下り路をすら失うた。女は驚ろいた様もなく、うろうろする黒きものを、そと白き指で軽く払い落す。落されたる・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・冠の底を二重にめぐる一疋の蛇は黄金の鱗を細かに身に刻んで、擡げたる頭には青玉の眼を嵌めてある。「わが冠の肉に喰い入るばかり焼けて、頭の上に衣擦る如き音を聞くとき、この黄金の蛇はわが髪を繞りて動き出す。頭は君の方へ、尾はわが胸のあたりに。・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・烏が一疋下りている。翼をすくめて黒い嘴をとがらせて人を見る。百年碧血の恨が凝って化鳥の姿となって長くこの不吉な地を守るような心地がする。吹く風に楡の木がざわざわと動く。見ると枝の上にも烏がいる。しばらくするとまた一羽飛んでくる。どこから来た・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・牙にあたればはねかえる。一疋なぞは斯う言った。「なかなかこいつはうるさいねえ。ぱちぱち顔へあたるんだ。」 オツベルはいつかどこかで、こんな文句をきいたようだと思いながら、ケースを帯からつめかえた。そのうち、象の片脚が、塀からこっちへ・・・ 宮沢賢治 「オツベルと象」
・・・おしまいにはとのさまがえるは、十一疋のあまがえるを、もじゃもじゃ堅めて、ぺちゃんと投げつけました。あまがえるはすっかり恐れ入って、ふるえて、すきとおる位青くなって、その辺に平伏いたしました。そこでとのさまがえるがおごそかに云いました。「・・・ 宮沢賢治 「カイロ団長」
・・・ そのとき向うの方から、一疋の美しいかえるの娘がはねて来てつゆくさの向うからはずかしそうに顔を出しました。「ルラさん、今晩は。何のご用ですか。」「お父さんが、おむこさんを探して来いって。」娘の蛙は顔を少し平ったくしました。「・・・ 宮沢賢治 「蛙のゴム靴」
・・・ ただ一疋の鷹が銀色の羽をひるがえして、空の青光を咽喉一杯に呑みながら、東の方へ飛んで行くばかりです。みんなは又叫びました。「又三郎、又三郎、早ぐ此さ飛んで来。」 その時です。あのすきとおる沓とマントがギラッと白く光って、風の又・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
出典:青空文庫