・・・お絹は起きあがってその反物を持ちだしながら、「わたし一反だけ羽織にしようかと思って。やがて大阪へ行かんならんさかえ。どっちも四十円がらみのもんや」 それは色のくすんだ、縞目もわからないような地味なものであった。「こんな地味なもの著る・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・もともと分れ分れの小屋敷を一つに買占めた事とて、今では同じ構内にはなって居るが、古井戸のある一隅は、住宅の築かれた地所からは一段坂地で低くなり、家人からは全く忘れられた崖下の空地である。母はなぜ用もない、あんな地面を買ったのかと、よく父に話・・・ 永井荷風 「狐」
・・・斜に射すランプの光で唄って居る二女の顔が冴えて見える。一段畢ると家の内はがやがやと騒がしく成る。煙草の烟がランプをめぐって薄く拡がる。瞽女は危ふげな手の運びようをして撥を絃へ挿んで三味線を側へ置いてぐったりとする。耳にばかり手頼る彼等の癖と・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・瞳ほどな点が一段の黒味を増す。しかし流れるとも広がるとも片づかぬ。「縁喜でもない、いやに人を驚かせるぜ。ワハハハハハ」と無理に大きな声で笑って見せたが、腑の抜けた勢のない声が無意味に響くので、我ながら気がついて中途でぴたりとやめた。やめ・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・階段の第一段を下るとき、溜っていた涙が私の眼から、ポトリとこぼれた。 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・即ち薬剤にて申せば女子に限りて多量に服せしむるの意味ならんなれども、扨この一段に至りて、女子の力は果して能く此多量の教訓に堪えて瞑眩することなきを得るや否や甚だ覚束なし。既に温良恭謙柔和忍辱の教に瞑眩すれば、一切万事控目になりて人生活動の機・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・の気象を養ったら、何となく人生を超絶して、一段上に出る塩梅で、苦痛にも何にも捉えられん、仏者の所謂自在天に入りはすまいかと考えた。 そこで、心理学の研究に入った。 古人は精神的に「仁」を養ったが、我々新時代の人は物理的に養うべきでは・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・すると宋江が潯陽江を渡る一段を思い出した。これは去年病中に『水滸伝』を読んだ時に、望見前面、満目蘆花、一派大江、滔々滾々、正来潯陽江辺、只聴得背後喊叫、火把乱明、吹風胡哨将来、という景色が面白いと感じて、こんな景色が俳句になったら面白かろう・・・ 正岡子規 「句合の月」
・・・それでも塩水選をかけたので恰度六斗あったから本田の一町一反分には充分だろう。とにかく僕は今日半日で大丈夫五十円の仕事はした訳だ。なぜならいままでは塩水選をしないでやっと反当二石そこそこしかとっていなかったのを今度はあちこちの農事試験場の・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・その一段深まり拡った人間と自然との生存を味わせようとして、神は人間に複雑な全心的な恋愛の切な情を与えたのかと思われることさえある程です。 恋愛の真実な経験は間違いなく生活内容を増大させます。けれども、私には、恋愛生活ばかり切りはなして、・・・ 宮本百合子 「愛は神秘な修道場」
出典:青空文庫