・・・ こけこっこうと鶏がまた一声鳴いた。 女はあっと云って、緊めた手綱を一度に緩めた。馬は諸膝を折る。乗った人と共に真向へ前へのめった。岩の下は深い淵であった。 蹄の跡はいまだに岩の上に残っている。鶏の鳴く真似をしたものは天探女であ・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・ 一声の汽笛が高く長く尻を引いて動き出した上野の一番汽車は、見る見るうちに岡の裾を繞ッて、根岸に入ッたかと思うと、天王寺の森にその煙も見えなくなッた。 窓の鉄棒を袖口を添えて両手に握り、夢現の界に汽車を見送ッていた吉里は、すでに煙が・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・之を喩えば人を密室に幽囚し、火を撮ませ熱湯を呑ませて、苦し熱しと一声すれば、則ち之を叱して忍耐に乏しき敗徳なりと言うに異ならず。知るや知らずや、其不平は人を謗るにも非ず、物妬むにも非ず、唯是れ婦人自身の権利を護らんとするの一心のみ。其心中の・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
汽笛一声京城を後にして五十三亭一日に見尽すとも水村山郭の絶風光は雲煙過眼よりも脆く写真屋の看板に名所古跡を見るよりもなおはかなく一瞥の後また跡かたを留めず。誰かはこれを指して旅という。かかる旅は夢と異なるなきなり。出ずるに・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・鍵穴の眼玉はたちまちなくなり、犬どもはううとうなってしばらく室の中をくるくる廻っていましたが、また一声「わん。」と高く吠えて、いきなり次の扉に飛びつきました。戸はがたりとひらき、犬どもは吸い込まれるように飛んで行きました。 その扉の・・・ 宮沢賢治 「注文の多い料理店」
・・・ さて平右衛門もあまりといえばありありとしたその白狐の姿を見ては怖さが咽喉までこみあげましたが、みんなの手前もありますので、やっと一声切り込んで行きました。 たしかに手ごたえがあって、白いものは薙刀の下で、プルプル動いています。・・・ 宮沢賢治 「とっこべとら子」
・・・ 一晩じゅう、どんなに私が体を火照らせ、神経を鋭敏に働かせ通したか、あけ方の雀が昨日と同じく何事もなかった朝にさえずり出したその一声を、どんな歓喜をもって耳にしたか、私のひとみほど近しい者だって同感することは出来まい。七時から、十二時ま・・・ 宮本百合子 「田舎風なヒューモレスク」
・・・ 犬は一声鳴いて尾をふった。「よい。そんなら不便じゃが死んでくれい」こう言って五助は犬を抱き寄せて、脇差を抜いて、一刀に刺した。 五助は犬の死骸をかたわらへ置いた。そして懐中から一枚の書き物を出して、それを前にひろげて、小石を重・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・ このままでややしばらくの間忍藻は全く無言に支配されていたが、その内に破裂した、次の一声が。「武芸はそのため」 その途端に燈火はふっと消えて跡へは闇が行きわたり、燃えさした跡の火皿がしばらくは一人で晃々。 下・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・そうして、人馬の悲鳴が高く一声発せられると、河原の上では、圧し重なった人と馬と板片との塊りが、沈黙したまま動かなかった。が、眼の大きな蠅は、今や完全に休まったその羽根に力を籠めて、ただひとり、悠々と青空の中を飛んでいった。・・・ 横光利一 「蠅」
出典:青空文庫