・・・日本はまるで筍のように一夜の中にずんずん伸びて行く。インスピレーションの高調に達したといおうか、むしろ狂気といおうか、――狂気でも宜い――狂気の快は不狂者の知る能わざるところである。誰がそのような気運を作ったか。世界を流るる人情の大潮流であ・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・その頃わたくしは押川春浪井上唖々の二亡友と、外神田の妓を拉して一夜紫明館に飲んだことを覚えている。四五輛の人力車を連ねて大きな玄関口へ乗付け宿の女中に出迎えられた時の光景は当世書生気質中の叙事と多く異る所がなかったであろう。根津の社前より不・・・ 永井荷風 「上野」
・・・ 八畳の座敷に髯のある人と、髯のない人と、涼しき眼の女が会して、かくのごとく一夜を過した。彼らの一夜を描いたのは彼らの生涯を描いたのである。 なぜ三人が落ち合った? それは知らぬ。三人はいかなる身分と素性と性格を有する? それも分ら・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・余は別れに臨んで君の送られたその児の終焉記を行李の底に収めて帰った。一夜眠られぬままに取り出して詳かに読んだ、読み終って、人心の誠はかくまでも同じきものかとつくづく感じた。誰か人心に定法なしという、同じ盤上に、同じ球を、同じ方向に突けば、同・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
・・・然るに、この良民が家にありて一部の経世書を読むか、または外に出でて一夜の政談演説を聴き、しかもその書、その演説は、すこぶる詭激奇抜の民権論にして、人を驚かすに足るものとせん。ここにおいて、かの良民は如何の感をなすべきや。聾盲とみに耳目を開き・・・ 福沢諭吉 「経世の学、また講究すべし」
・・・前日来の病もまだ全くは癒えぬにこの旅亭に一夜の寒気を受けんこと気遣わしくやや落胆したるがままよこれこそ風流のまじめ行脚の真面目なれ。 だまされてわるい宿とる夜寒かな つぐの日まだき起き出でつ。板屋根の上の滴るばかりに沾いたるは昨・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・ 野宿第一夜四月二十日の午后四時頃、例の楢ノ木大学士が「ふん、この川筋があやしいぞ。たしかにこの川筋があやしいぞ」とひとりぶつぶつ言いながら、からだを深く折り曲げて眼一杯にみひらいて、足もとの砂利・・・ 宮沢賢治 「楢ノ木大学士の野宿」
・・・フランクリンの凧の逸話は人口に膾炙しているが、一七五二年の九月の暴風雨のその一夜にいたる迄には、ギリシャ人たちが琥珀の玉をこすっては、軽いものを吸いつけさせて遊んでいた時代から二千年もの人類の歴史がつみ重ねられて来ている。電気――エレキへの・・・ 宮本百合子 「科学の常識のため」
・・・ 寺に一夜寝て、二十九日の朝三人は旅に立った。文吉は荷物を負って一歩跡を附いて行く。亀蔵が奉公前にいたと云うのをたよりにして、最初上野国高崎をさして往くのである。 九郎右衛門も宇平も文吉も、高崎をさして往くのに、亀蔵が高崎にいそうだ・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・ 露都の一夜、なつかしきエレオノラのために狂舞したヘルマン・バアルはかくして世評に対する彼の論理的欲望を充たした。 やがてデュウゼの一身には恐ろしい変化が来た。彼女はもはや情熱の城に立てこもろうとはしない。彼女は若い時の客気にま・・・ 和辻哲郎 「エレオノラ・デュウゼ」
出典:青空文庫