・・・ 競馬の日の晩に村では一大事が起った。その晩おそくまで笠井の娘は松川の所に帰って来なかった。こんな晩に若い男女が畑の奥や森の中に姿を隠すのは珍らしい事でもないので初めの中は打捨てておいたが、余りおそくなるので、笠井の小屋を尋ねさすとそこ・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ また諸君は、詩を詩として新らしいものにしようということに熱心なるあまり、自己および自己の生活を改善するという一大事を閑却してはいないか。換言すれば、諸君のかつて排斥したところの詩人の堕落をふたたび繰返さんとしつつあるようなことはないか・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・ 小用をたして帰ると、もの陰から、目を円くして、一大事そうに、「あの、旦那様。」「何だい。」「照焼にせいという、お誂ですがなあ。」「ああ。」「川鱒は、塩をつけて焼いた方がおいしいで、そうしては不可ないですかな。」・・・ 泉鏡花 「七宝の柱」
・・・一生懸命、一大事、何かの時、魂も心も消えるといえば、姿だって、消えますわ。――三枚目の大男の目をまわしているまわりへ集まった連中の前は、霧のように、スッと通って、悠然と筧で手水をしたでしょう。」「もの凄い。」「でも、分らないのは、―・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・ふるえる両手を膝の前に突いて、「おとッつさん、わたしの身の一大事の事ですから、どうぞ挨拶を三日間待ってください……」 おとよはややふるえ声でこう答えた。さすがに初めからきっぱりとは言いかねたのである。おとよの父は若い時から一酷もので・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・『門三味線』を作ったのもこの壱岐殿坂時代であって、この文句が今の批評家さまに解ったら一大事だなどと皮肉をいいつつ会心の文句を読んで聞かした事があった。 森川町の草津の湯の傍の簾藤という下宿屋に転じたのはその後であった。この簾藤時代が緑雨・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・ 有体に言うと今の文人の多くは各々蝸牛の殻を守るに汲々として互いに相褒め合ったり罵り合ったりして聊かの小問題を一大事として鎬を削ってる。毎日の新聞、毎月の雑誌に論難攻撃は絶えた事は無いが、尽く皆文人対文人の問題――主張対主張の問題では無・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
・・・が、寝言にまでもこの一大事の場合を歌っていたのだから、失敗うまでもこの有史以来の大動揺の舞台に立たして見たかった。 ヨッフェが来た時、二葉亭が一枚会合に加わっていたらドウだったろう。あの会合は本尊が私設外務大臣で、双方が探り合いのダンマ・・・ 内田魯庵 「二葉亭追録」
・・・屋と思ったが、あたりには、人の影もない、橋の上も一尺ばかり水が出て、濁水がゴーゴーという音を立てて、隅田川の方へ流込んでいる、致方がないので、衣服の裾を、思うさま絡上げて、何しろこの急流故、流されては一大事と、犬の様に四這になって、折詰は口・・・ 小山内薫 「今戸狐」
・・・一度は引返えして手紙で言おうかとも思ったが、何しろ一大事と、自分は思切って格子戸を潜った。 五月十三日 勝手の間に通ってみると、母は長火鉢の向うに坐っていて、可怕い顔して自分を迎えた。鉄瓶には徳利が入れてある。二階は兵士どもの飲んで・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
出典:青空文庫