・・・ 一層を下るごとに下界に近づくような心持ちがする。冥想の皮が剥げるごとく感ぜらるる。階段を降り切って最下の欄干に倚って通りを眺めた時にはついに依然たる一個の俗人となり了ってしまった。案内者は平気な顔をして厨を御覧なさいという。厨は往来よ・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・本来の性質からは、それは幾何学のものよりも、一層明晰なものなのであるが、我々が感官から得た、幼時から馴された、種々なる先入見と一致せないかに見えるものから非常に注意深く、精神をできるだけ感官から引離そうと努力する人によってのみ理解せられるの・・・ 西田幾多郎 「デカルト哲学について」
・・・アフォリズムとは、だれも知る如くエッセイの一層簡潔に、一層また含蓄深くエキスされた文学である。したがつてそれは最も暗示に富んだ文学で、言葉と言葉、行と行との間に、多くの思ひ入れ深き省略を隠して居る。即ち言へば、アフォリズムはそれ自ら「詩」の・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・髪はさまで櫛の歯も見えぬが、房々と大波を打ッて艶があって真黒であるから、雪にも紛う顔の色が一層引ッ立ッて見える。細面ながら力身をもち、鼻がすッきりと高く、きッと締ッた口尻の愛嬌は靨かとも見紛われる。とかく柔弱たがる金縁の眼鏡も厭味に見えず、・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
一本腕は橋の下に来て、まず体に一面に食っ附いた雪を振り落した。川の岸が、涜されたことのない処女の純潔に譬えてもいいように、真っ白くなっているので、橋の穹窿の下は一層暗く見えた。しかしほどなく目が闇に馴れた。数日前から夜ごと・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・余輩はただ今後の成行に眼をつけ、そのいずれかまず直接法の不便利を悟りて、前に出したる手を引き、口を引き、理屈を引き、さらに思想を一層の高きに置きて、無益の対陣を解く者ならんと、かたわらより見物して水掛論の落着を待つのみ。 この全編の大略・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・で、この方面の活動だと、ピタッと人生にはまッて了って、苦痛は苦痛だが、それに堪えられんことは無い。一層奮闘する事が出来るようになるので、私は、奮闘さえすれば何となく生き甲斐があるような心持がするんだ。 明治三十六年の七月、日露戦争が始ま・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・が気になってなりませんでしたが、今度は前よりも一層心苦しゅうございます。 女の手紙は書いてある文句よりは、行と行との間に書かずにある文句を読まなくてはならないと云うのは、本当の事でございましょう。それから一番大切な事が書かずにあると申す・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・〔『日本』明治三十二年三月二十二日〕 曙覧が清貧の境涯はほぼこの文に見えたるも、彼の衣食住の有様、すなわち生活の程度いかんはその歌によって一層詳に知ることを得べし。その歌左に人にかさかしたりけるに久しうかへさざりければ、・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・そうだとすればおれは一層おもしろいのだ、まあそんな下らない話はやめろ、そんなことは昔の坊主どもの言うこった、見ろ、向うを雁が行くだろう、おれは仕止と従弟のかたは鉄砲を構えて、走って見えなくなりました。 須利耶さまは、その大きな黒い雁の列・・・ 宮沢賢治 「雁の童子」
出典:青空文庫