・・・「そういったわけでもないですがね、……兄さんには解らんでしょうが、遣繰り算段一方で商売してるほど苦しいものはないと思いますね。朝から晩まで金の苦労だ。だからたまにこうして遊びに出てきても、留守の間にどんな厭な事件が起きてやしないかと思う・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・また一方ではそれがたいていは僕の気のせいだということは百も承知で、そんな度胸もきめるんです。しかしやっぱり百に一つもしやほんとうの人間ではないかという気がいつでもする。変なものですね。あっはっはは」 話し手の男は自分の話に昂奮を持ちなが・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・ 四 あくまで無礼な、人を人とも思わぬかの東条という奴、と酔醒めの水を一息に仰飲って、辰弥は独りわが部屋に、眼を光らして一方を睨みつつ、全体おれを何と思っているのだ。口でこそそれとは言わんが、明らかにおれを凌辱した。・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・ 十幾本の鉤を凧糸につけて、その根を一本にまとめて、これを栗の木の幹に結び、これでよしと、四郎と二人が思わず星影寒き大空の一方を望んだ時の心持ちはいつまでも忘れる事ができません。 もちろん雁のつれるわけがないので、その後二晩ばかりや・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・しかし一方はわが子で目の前に見、他方は他国でうわさに聞くのみ。情緒の上には活々とした愛と動機力は無論幼児の手袋を買ってやる方にはたらいている。客観的事実の軽重にしたがって、零細な金を義捐してもその役立つ反応はわからない。一方は子どものいたい・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・ 一方では、飲酒反対、宗教反対のピオニールのデモを見習った対岸の黒河の支那の少年たちが、同様のデモをやったりするのに、他方どうしても、こちらの、すきを伺っては、穀物のぬすみ喰いにたかってくる雀のように、密輸入と、ルーブル紙幣の密輸出を企・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・こういうように三方は山で塞がっているが、ただ一方川下の方へと行けば、だんだんに山合が闊くなって、川が太って、村々が賑やかになって、ついに甲州街道へ出て、それから甲斐一国の都会の甲府に行きつくのだ。笛吹川の水が南へ南へと走って、ここらの村々の・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・その長い間、たゞ堰き止められる一方でいた言葉が、自由になった今、後から後からと押しよせてくるのだ。 保釈になった最初の晩、疲れるといけないと云うので、早く寝ることにしたのだが、田口はとうとう一睡もしないで、朝まで色んなことをしゃべり通し・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・おげんはその台所に居ながらでも朝顔の枯葉の黄ばみ残った隣家の垣根や、一方に続いた二階の屋根などを見ることが出来た。「おさださん、わたしも一つお手伝いせず」 とおげんはそこに立働く弟の連合に言った。秋の野菜の中でも新物の里芋なぞが出る・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・けれども今日までの私はまだどうもそれだけの思いきりもつかぬ。一方には赤い血の色や青い空の色も欲しいという気持が滅しない。幾ら知識を駆使して見てもこの矛盾は残る。つまり私は一方にはある意味での宗教を観ているとともに、一方はきわめて散文的な、方・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
出典:青空文庫