・・・ 男の酔いは一時にさめた。「ありがとう。もう飲まない」「たんと、たんと、からかいなさい」「おや、僕は、僕は、ほんとうに飲んでいるのだよ」 あらためて娘の瞳を凝視した。「だって」娘は、濁りなき笑顔で応じた。「誓ったのだもの・・・ 太宰治 「あさましきもの」
・・・実際鉄道庁で、この線路の列車の往復を一時増加しようかと評議をした位である。無論急行で、一等車ばかりを聯結しようと云うのであった。 その会議の結果はこうである。親族一同はポルジイに二つの道を示して、そのどれかを行わなくてはならないことにし・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・どうせ碌なことではないと知っているのだろう。一時思い止まったが、また駆け出した。そして今度はその最後の一輌にようやく追い着いた。 米の叺が山のように積んである。支那人の爺が振り向いた。丸顔の厭な顔だ。有無をいわせずその車に飛び乗った。そ・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・ しかし中等学校を卒業しないうちに学校生活が一時中断するようになったというのは、彼の家族一同がイタリアへ移住する事になったのである。彼等はミランに落着いた。そこでしばらく自由の身になった少年はよく旅行をした。ある時は単身でアペニンを越え・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・できるのは一時です」彼はいくらか興奮したような声で言った。 私たちは河原ぞいの道路をあるいていた。河原も道路も蒼白い月影を浴びて、真白に輝いていた。対岸の黒い松原蔭に、灯影がちらほら見えた。道路の傍には松の生い茂った崖が際限もなく続いて・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・安政中北里災ニ罹リ一時仮館ヲ此ニ設ク。明治ノ初年ニ至リ官復許シテ之ヲ興ス。爾来今ニ至ツテ日ニ昌ニ月ニ盛ナリ。家家娉ヲ貯ヘ、戸戸婀娜ヲ養フ。紅楼翠閣。一簇ノ暖烟ヲ屯ス。妓院ノ数今七八十戸ニ下ラズト云フ。」 わたくしは先年坊間の一書肆に於て・・・ 永井荷風 「上野」
・・・なぜ三人とも一時に寝た? 三人とも一時に眠くなったからである。 夏目漱石 「一夜」
・・・その上にもニイチェの名は、一時日本文壇の流行児でさへもあつた。丁度大正時代の文壇で、一時トルストイやタゴールが流行児であつた如く、ニイチェもまたかつて流行児であつた。そしてトルストイやタゴールが廃つた如く、ニイチェもまた忽ちに廃つてしまつた・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・ ベルが段々調子を上げ、全で余韻がなくなるほど絶頂に達すると、一時途絶えた。 五人の坑夫たちは、尖ったり、凹んだりした岩角を、慌てないで、然し敏捷に導火線に火を移して歩いた。 ブスッ! シュー、と導火線はバットの火を受けると、細・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・本見世と補見世の籠の鳥がおのおの棲に帰るので、一時に上草履の音が轟き始めた。 三 吉里は今しも最後の返辞をして、わッと泣き出した。西宮はさぴたの煙管を拭いながら、戦える吉里の島田髷を見つめて術なそうだ。 燭台の蝋・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
出典:青空文庫