・・・ 彼を不良少年と思っていれば、一瞥を与えないのは当然である。しかし不良少年と思っていなければ、明日もまた今日のように彼のお時儀に答えるかも知れない。彼のお時儀に? 彼は――堀川保吉はもう一度あのお嬢さんに恬然とお時儀をする気であろうか? い・・・ 芥川竜之介 「お時儀」
・・・ 河内山は、ちょいと煙管の目方をひいて見て、それから、襖ごしに斉広の方を一瞥しながら、また、肩をゆすってせせら笑った。 四 では、煙管をまき上げられた斉広の方は、不快に感じたかと云うと、必しもそうではない。・・・ 芥川竜之介 「煙管」
・・・ 僕の左に坐ったのは僕のおととい江丸の上から僅かに一瞥した支那美人だった。彼女は水色の夏衣裳の胸に不相変メダルをぶら下げていた。が、間近に来たのを見ると、たとい病的な弱々しさはあっても、存外ういういしい処はなかった。僕は彼女の横顔を見な・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・ 老紳士はこう云って、むしろ昂然と本間さんを一瞥した。本間さんがこれにも、「ははあ」と云う気のない返事で応じた事は、勿論である。すると相手は、嘲るような微笑をちらりと唇頭に浮べながら、今度は静な口ぶりで、わざとらしく問いかけた。「君・・・ 芥川竜之介 「西郷隆盛」
・・・ベッカアは驚きながら、その人物の肩ごしに、読んでいる本を一瞥致しました。本はバイブルで、その人物の右手の指は「爾の墓を用意せよ。爾は死すべければなり」と云う章を指さして居ります。ベッカアは友人のいる部屋へ帰って来て、一同に自分の死の近づいた・・・ 芥川竜之介 「二つの手紙」
・・・私は漸くほっとした心もちになって、巻煙草に火をつけながら、始めて懶い睚をあげて、前の席に腰を下していた小娘の顔を一瞥した。 それは油気のない髪をひっつめの銀杏返しに結って、横なでの痕のある皸だらけの両頬を気持の悪い程赤く火照らせた、如何・・・ 芥川竜之介 「蜜柑」
・・・すると友人の批評家が、あすこの赤い柱の下に、電車を待っている人々の寒むそうな姿を一瞥すると、急に身ぶるいを一つして、「毛利先生の事を思い出す。」と、独り語のように呟いた。「毛利先生と云うのは誰だい。」「僕の中学の先生さ。まだ君に・・・ 芥川竜之介 「毛利先生」
・・・そして最後の一瞥を例の眠たげな、鼠色の娘の目にくれて置いて、灰色の朝霧の立ち籠めている、湿った停車場の敷石の上に降りた。 * * *「もう五分で六時だ。さあ、時間だ。」検事はこ・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ 院長は、その老人と、取り次いだ看護婦とを鋭く一瞥してからいかにも、こんなものを……ばかなやつだといわぬばかりに、「みてもらいたいというのは、この方かね。」と、ききました。「さよう、私でございます。遠いところ、やっと歩いてまいり・・・ 小川未明 「三月の空の下」
・・・試みに小学校の修身書を一瞥してもすぐ分ることであるが、その並べられた題目と、其れに関する概念的な口授式の教授ぶりとが、ほんとうの人間性の結晶と思っては大間違である。今日の習慣なり、風俗なり、礼儀なり、或は又道徳と云ったようなものは、今日の社・・・ 小川未明 「人間性の深奥に立って」
出典:青空文庫