・・・ 中には二三本首を傾げて注意しているようなものもあったが、たいていは無雑作な一瞥を蒙ったばかしで、弟子の手へ押しやられた。十七点の鑑定が三十分もかからずにすんだ。その間耕吉は隠しきれない不安な眼つきに注意を集めて、先生の顔色を覗っていた・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・乗っている女の人もただ往来からの一瞥で直ちに美しい人達のように思えました。何台もの電車を私達は見送りました。そのなかには美しい西洋人の姿も見えました。友もその晩は快かったにちがいありません。「電車のなかでは顔が見難いが往来からだとかすれ・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・ 何時自分が東京を去ったか、何処を指して出たか、何人も知らない、母にも手紙一つ出さず、建前が済んで内部の雑作も半ば出来上った新築校舎にすら一瞥もくれないで夜窃かに迷い出たのである。 大阪に、岡山に、広島に、西へ西へと流れて遂にこの島・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・ 我邦での魔法の歴史を一瞥して見よう。先ず上古において厭勝の術があった。この「まじなう」という「まじ」という語は、世界において分布区域の甚だ広い語で、我国においてもラテンやゼンドと連なっているのがおもしろい。禁厭をまじないやむると訓んで・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・猶、新時代の先駆者たりし北村君に就いては、話したいと思うことは多くあるが、ここにはその短い生涯の一瞥にとどめておく。 島崎藤村 「北村透谷の短き一生」
・・・机の上には、大形の何やら横文字の洋書が、ひろげられていたのであるが、佐伯はそれには一瞥もくれなかった。「里見八犬伝か。面白そうだね。」と呟き、つっ立ったまま、その小さい文庫本のペエジをぱらぱら繰ってみて、「君は、いつでも読まない本を机の上に・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・内心は、私こそ誰よりも最も、その籠の内容物に関心を持っていたに違いないのですが、けれども私は、我慢してその方向には一瞥もくれなかったのでした。それが成功したのかも知れない、と思うと、なんだか自分が、案外に女たらしの才能のある男のような感じが・・・ 太宰治 「たずねびと」
・・・三浦君のほうには一瞥もくれなかったという。降りてそのまま、バスに背を向けて歩き出した。貞子は、あわてそそくさと降りて、三浦君のほうを振り返り振り返り、それでも姉の後に附いて行った。 三浦君のバスは動いた。いきなり妹は、くるりとこちらに向・・・ 太宰治 「律子と貞子」
・・・何を話しているかはわからなかったが、ただ一瞥でその時に感ぜられたことは、その日本の紳士たちのその西洋人に対する態度には、あたかも昔の家来が主人に対するごとき、またある職業の女性が男性に対するごとき、何かしらそういったような、あるものがあるよ・・・ 寺田寅彦 「試験管」
・・・ ただ一瞥を与えただけで自分は惰性的に神保町の停車場まで来てしまった。この次に見つけたらあれを買って来るのだと思いついた時には、自分をのせた電車はもう水道橋を越えて霜夜の北の空に向かって走っていた。昔のわが家の油絵はどうなったか、それを・・・ 寺田寅彦 「青衣童女像」
出典:青空文庫