・・・ 神山は浅川の叔母に一礼してから、懐に入れて来た封書を出した。「御病人の方は、少しも御心配には及ばないとか申して居りました。追っていろいろ詳しい事は、その中に書いてありますそうで――」 叔母はその封書を開く前に、まず度の強そうな・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ 旗本の一人、――横田甚右衛門はこう言って家康に一礼した。 しかし家康は頷いたぎり、何ともこの言葉に答えなかった。のみならず直孝を呼び寄せると、彼の耳へ口をつけるようにし、「その女の素姓だけは検べておけよ」と小声に彼に命令した。・・・ 芥川竜之介 「古千屋」
・・・ 監督が丁寧に一礼して部屋を引き下がると、一種の気まずさをもって父と彼とは向かい合った。興奮のために父の頬は老年に似ず薄紅くなって、長旅の疲れらしいものは何処にも見えなかった。しかしそれだといって少しも快活ではなかった。自分の後継者であ・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ 私も山に一礼した。 さて一つ見つかると、あとは女郎花の枝ながらに、根をつらねて黄色に敷く、泡のようなの、針のさきほどのも交った。松の小枝を拾って掘った。尖はとがらないでも、砂地だからよく抜ける。「松露よ、松露よ、――旦那さん。・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・ その声にきけば、一層奥ゆかしくなおとうといとうりてんの貴女の、さながらの御かしずきに対して、渠は思わず一礼した。 婦はちょうど筧の水に、嫁菜の茎を手すさびに浸していた。浅葱に雫する花を楯に、破納屋の上路を指して、「その坂をなぞ・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・辻町は一礼し、墓に向って、屹といった。「お嬢さん、私の仕業が悪かったら、手を、怪我をおさせなさい。」 鋏は爽な音を立てた、ちちろも声せず、松風を切ったのである。「やあ、塗師屋様、――ご新姐。」 木戸から、寺男の皺面が、墓地下・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・ 僕はその室にあがって、誰れにもとつかず一礼すると、女の方は丁寧に挨拶したが、男の方は気がついたのか、つかないのか、飯にかこつけて僕を見ないようにしている。 吉弥はその男と火鉢をさし挟んで相対し、それも、何だか調子抜けのした様子。・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・まじめに言って一礼した。「お送りする。」 先生は、よろよろと立ち上った。私のほうを見て、悲しそうに微笑んで、「君、手帖に書いて置いてくれ給え。趣味の古代論者、多忙の生活人に叱咤せらる。そもそも南方の強か、北方の強か。」 酒の・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・と、どうやら無事に言い納めた時に、三十歳を少し越えたくらいの美しい人があらわれ、しとやかに一礼して、「はじめてお目にかかります。正子の姉でございます。」「は、幾久しゅうお願い申上げます。」と私は少しまごついてお辞儀した。つづいて、ま・・・ 太宰治 「佳日」
・・・われはこの有名な新進作家の狼狽を不憫に思いつつ、かのじじむさげな教授に意味ありげに一礼して、おのが答案を提出した。われはしずしずと試験場を、出るが早いかころげ落ちるように階段を駈け降りた。 戸外へ出て、わかい盗賊は、うら悲しき思いをした・・・ 太宰治 「逆行」
出典:青空文庫