・・・その小説の描写が、怪しからぬくらいに直截である場合、人は感服と共に、一種不快な疑惑を抱くものであります。うま過ぎる。淫する。神を冒す。いろいろの言葉があります。描写に対する疑惑は、やがて、その的確すぎる描写を為した作者の人柄に対する疑惑に移・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・長い鞭が夕日に光って、一種の音を空気に伝える。路の凸凹がはげしいので、車は波を打つようにしてガタガタ動いていく。苦しい、息が苦しい。こう苦しくってはしかたがない。頼んで乗せてもらおうと思ってかれは駆け出した。 金椀がカタカタ鳴る。はげし・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・それが云わば敵国の英国の学者の日蝕観測の結果からある程度まで確かめられたので、事柄は世人の眼に一種のロマンチックな色彩を帯びるようになって来た。そして人々はあたかも急に天から異人が降って来たかのように驚異の眼を彼の身辺に集注した。 彼の・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・その気質にはかなり意地の強いところもあるらしく見えたが、それも相互にまだ深い親しみのない私に対する一種の見えと羞恥とから来ているものらしく思われた。彼は眉目形の美しい男だという評判を、私は東京で時々耳にしていた。雪江は深い愛着を彼にもってい・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・冷かな歴史の眼から見れば、彼らは無政府主義者を殺して、かえって局面開展の地を作った一種の恩人とも見られよう。吉田に対する井伊をやったつもりでいるかも知れぬ。しかしながら徳川の末年でもあることか、白日青天、明治昇平の四十四年に十二名という陛下・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・ 遊里の光景とその生活とには、浄瑠璃を聴くに異らぬ一種の哀調が漲っていた。この哀調は、小説家がその趣味から作り出した技巧の結果ではなかった。独り遊里のみには限らない。この哀調は過去の東京にあっては繁華な下町にも、静な山の手の町にも、・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・ 同時に多くのイズムは、零砕の類例が、比較的緻密な頭脳に濾過されて凝結した時に取る一種の形である。形といわんよりはむしろ輪廓である。中味のないものである。中味を棄てて輪廓だけを畳み込むのは、天保銭を脊負う代りに紙幣を懐にすると同じく小さ・・・ 夏目漱石 「イズムの功過」
・・・名利を思うて煩悶絶間なき心の上に、一杓の冷水を浴びせかけられたような心持がして、一種の涼味を感ずると共に、心の奥より秋の日のような清く温き光が照して、凡ての人の上に純潔なる愛を感ずることが出来た。特に深く我心を動かしたのは、今まで愛らしく話・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
・・・の形式の一種なのである。 アフォリズムは詩である。故にこれを理解し得るものも、また詩人の直覚と神経とを持たねばならない。そこでニイチェを理解するためには、読者に二つの両立した資格が要求される。「詩人」であつて、同時に「哲学者」であること・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・左れば妻が夫に仕えるとあれば、其夫妻の関係は君臣主従に等しく、妻も亦是れ一種色替りの下女なりとの意味を丸出にしたるものゝ如し。我輩の断じて許さゞる所なり。今の日本の習俗に於て、仕官又は商売等、戸外百般の営業は男子の任ずる所にして、一家の内事・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
出典:青空文庫