・・・私には、まだ、かすかに一縷の望みがあったのでした。もしかしたら、私の恥を救ってくれるような佳い言葉を、先生から書き送られて来るのではあるまいか。此の大きい封筒には、私の二通の手紙の他に、先生の優しい慰めの手紙もはいっているのではあるまいか。・・・ 太宰治 「恥」
・・・幸におれは一工夫して、これならばと一縷の希望を繋いだ。夜、ホテルでそっと襟を出して、例の商標を剥がした。戸を締め切って窓掛を卸して、まるで贋金を作るという風でこの為事をしたのである。 翌朝国会議事堂へ行った。そこの様子は少しおれを失望さ・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・の習俗の真相は伝わっていないが、もしかすると、これと一縷の縁を曳いているのではないかという空想も起し得られる。 唄合戦の揚句に激昂した恋敵の相手に刺された青年パーロの瀕死の臥床で「生命の息を吹込む」巫女の挙動も実に珍しい見物である。はじ・・・ 寺田寅彦 「映画雑感6[#「6」はローマ数字、1-13-26]」
・・・しかしそれほど偶然的でない色々な災難の源を奥へ奥へ捜って行った時に、意外な事柄の継起によってそれが厄年前後における当人の精神的危機と一縷の関係をもっている事を発見するような場合はないものだろうか。例えばその人が従来続けて来た平静な生活から転・・・ 寺田寅彦 「厄年と etc.」
・・・自分も新しい主婦の晴れやかな顔を見て、何となくこの店に一縷の明るい光がさすように思うた。 今年の夏、荒物屋には幼い可愛い顔が一つ増した。心よく晴れた夕方など、亭主はこの幼時を大事そうに抱いて店先をあちこちしている。近所のお内儀さんなどが・・・ 寺田寅彦 「やもり物語」
・・・平和なる田園に生れて巴里の美術家となった一青年が、爆裂弾のために全村尽く破滅したその故郷に遊び、むかしの静な村落が戦後一変して物質的文明の利器を集めた一新市街になっているのを目撃し、悲愁の情と共にまた一縷の希望を感じ、時勢につれて審美の観念・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
・・・河を隔てて木の間隠れに白くひく筋の、一縷の糸となって烟に入るは、立ち上る朝日影に蹄の塵を揚げて、けさアーサーが円卓の騎士と共に北の方へと飛ばせたる本道である。「うれしきものに罪を思えば、罪長かれと祈る憂き身ぞ。君一人館に残る今日を忍びて・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・しかして評家が従来の読書及び先輩の薫陶、もしくは自己の狭隘なる経験より出でたる一縷の細長き趣味中に含まるるもののみを見て真の文学だ、真の文学だと云う。余はこれを不快に思う。 余は評家ではない。前段に述べたる資格を有する評家では無論ない。・・・ 夏目漱石 「作物の批評」
・・・そもそも歌の腐敗は『古今集』に始まり足利時代に至ってその極点に達したるを、真淵ら一派古学を闢き『万葉』を解きようやく一縷の生命を繋ぎ得たり。されど真淵一派は『万葉』を解きて『万葉』を解かず、口には『万葉』をたたえながらおのが歌は『古今』以下・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・陰影の濃い粘りづよい執拗な筆致等は、主人公の良心の表現においても、当時の文壇的風潮をなしていた行為性、逆流の中に突立つ身構えへの憧憬、ニイチェ的な孤高、心理追求、ドストイェフスキー的なるもの等の趣向に一縷接したところを含み、その好評に於ても・・・ 宮本百合子 「今日の文学の展望」
出典:青空文庫