・・・その間も、一言も彼の口から「会費ができたかね?」といったような言葉が出ない。つまり、てんで、私の出席するしないが、彼には問題ではないらしい。 いったい今度の会は、最初から出版記念とか何とかいった文壇的なものにするということが主意ではなか・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・彼が今日にも出てゆくと言っても彼女が一言の不平も唱えないことはわかりきったことであった。それでは何故出てゆかないのか。生島はその年の春ある大学を出てまだ就職する口がなく、国へは奔走中と言ってその日その日をまったく無気力な倦怠で送っている人間・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・骨も埋もるるばかり肥え太りて、角袖着せたる布袋をそのまま、笑ましげに障子の中へ振り向きしが、話しかくる一言の末に身を反らせて打ち笑いぬ。中なる人の影は見えず。 われを嘲けるごとく辰弥は椅子を離れ、庭に下り立ちてそのまま東の川原に出でぬ。・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・それもたって勧めるではなく、彼の癖として少し顔を赤らめて、もじもじして、丁寧に一言「行きませんか」と言ったのです。 私はいやと言うことができないどころでなく、うれしいような気がして、すぐ同意しました。 雪がちらつく晩でした。 木・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・ 最後に一言付すべきことは、生の問いをもってする倫理学の研究は実は倫理学によって終局しないものである。それは善・悪の彼岸、すなわち宗教意識にまで分け入らねば解決できぬ。もとより倫理学としては、その学の中で解決を求めて追求するのが学の任務・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・ 母は兄の前では一言の文句もよく言わずに、かげで息子の不品行を責めた。僕は、「早よ、ほかで嫁を貰うてやらんせんにゃ。」 母と、母の姉にあたる伯母が来あわしている椽側で云った。「われも、子供のくせに、猪口才げなことを云うじゃな・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・とただ一言。紹巴がまた「めでたき歌書は何でござりましょうか」と問うた。答えは簡単だった。「源氏」。それきりだった。また紹巴が「誰か参りて御閑居を御慰め申しまするぞ」と問うた。公の返事は実に好かった。「源氏」。 三度が三度同じ返答で、紹巴・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・ 母親はたった一言も聞き洩さないように聞いていた。――それから二人は人前もはゞからずに泣出してしまった。 * それから半年程して、救援会の女の人が、田舎から鉛筆書きの手紙を受取った――それはお安が書いた手紙だった・・・ 小林多喜二 「争われない事実」
・・・とは阿房陀羅経もまたこれを説けりお噺は山村俊雄と申すふところ育ち団十菊五を島原に見た帰り途飯だけの突合いととある二階へ連れ込まれたがそもそもの端緒一向だね一ツ献じようとさされたる猪口をイエどうも私はと一言を三言に分けて迷惑ゆえの辞退を、酒席・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・という一言でこれを斥ける勇気を持っている。而してこの知識が私をして普通道徳の前に諦めをつけさせる、しかたがないと思わせる。それ以上、自分に取っては普通道徳は何ら崇高の意義をも有しない。一種の方便経に過ぎない。 まだ一つある。私はむしろ情・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
出典:青空文庫